ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督「読まれなかった小説」(★★★★★) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督「読まれなかった小説」(★★★★★)

監督 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン 出演 アイドゥン・ドウ・デミルコル、ムラト・ジェムジル、ベンヌ・ユルドゥルムラー

 フー・ボー監督「象は静かに座っている」の対極にある映画である。出演者はひたすらしゃべりまくる。主役の息子、両親だけではない。脇役の友人や、書店で出会った小説家も、延々とことばを語る。それは精神なのか、感情なのか。イブン・アラビーを語るときでさえ、それは神学論なのか、哲学なのか、現実社会への憤りなのかわからない。あらゆるものに区別はなく、ただ「語る」ということだけがある。そして、こんなにしゃべりまくるにもかかわらず、彼らには「言い足りないこと」「言い残したこと」がある。その瞬間に「言えなかったこと」がある。つまり、「理解」しあわないのだ。
 映画だから、最後は「理解」に至るのだが、感動的なのは「理解」ではなく、こんなにも理解しあわずに、他人を拒否しながら、それでも「共存」しているということである。なにが彼らをつないでいるのか。逆説的な言い方になるが、「ことば」なのだ。
 「理解しない」というのは不思議なことで、「理解できる」何かがあって、そのうえで「理解しない」という決断に至る。私のことばは、そのようには動かない。私の肉体はそのようには動かない。そう判断するときの「そのように」という部分。そのとき動いている何か。「理性」と言っていいのかもしれない。「意味」をつかみとる力。いや「意味」をささえる「ことば」。「ことば」のなかに意味があるのか、「意味」の動きとしてことばがあるのか、これも区別はできないし、区別する必要のないものかもしれないけれど、何らかのことを「共有」したうえで、それを拒絶するとき「理解しない」(私は違う)という態度になる。
 「象は静かに座っている」のとき、「肉体」が先に動いて、その「肉体」をことばが追いかけるということを書いた(ように、思う)。この映画では、むしろ逆だ。「ことば」が先に動いて、それを肉体が追いかける。しかし追いつけない。肉体が残されてしまう。そしてそれは、ことばとは逆に、ひとが自然に受け入れてしまうものなのだ。
 こういうシーンがある。
 主人公が村からの帰り道、友人に会う。リンゴの木にのぼって、リンゴをとっている。友人はイスラム教徒の「聖職者」である。彼は友人をつれており、友人も「聖職者」である。そこで、神学論か社会論か哲学か何かわからないけれど議論が始まる。三人のアップもあるが、三人は村のなかを歩きながら話し続ける。そのときの三人の姿(遠景)、さらに村の姿がスクリーンに映し出される。「声」によって三人は区別できるし、「論理」によっても三人は区別できる。もちろん遠景とは言え「姿(肉体)」によっても区別はできるのだが、このときの肉体は「三人」という存在であって、それ以上ではない。「意味」の入れ物が三つある、その「入れ物」という感じである。いいかえると、このとき私は「入れ物」としての「肉体」があるということを受け入れて、それを見ている。たぶん歩いて議論している三人も、それぞれの「肉体」を「ことば」の入れ物として見ているように感じられる。「入れ物」は「入れ物」であって、「内容」ではないので、それがどんな形をしていても、それなりに存在してしまう。受け入れてしまうものなのだ。
 では、このとき「ことば」は何とつながっているのか。何を「共有」しているのか。
 イブン・アラビーが出てきたせいかもしれないが、「ことば」は「神」とつながっているのだ、と思った。それぞれひとりひとりが「神」と直接、「ことば」でつながっている。友人とつながっている、家族とつながっているのではなく「神」とつながっている。そのつながりのなか(ことば=意味)のなかに他人は入っていくことはできない。何か、イスラム教徒には、独特の「個人主義」がある。「ことば=神」の「個人的契約」のなかに他人は入ることができない。彼らが語っているのは、「私は神とこういう関係にある」ということだけなのだ。共通の話題が語られているようでも、そこには「絶対的な差異」というものがある。先に書いた「理解する/理解しない」は「あなたが神とどういうことばで契約するか、その内容は私には無関係(理解しない)だが、あなたのことばが神とつながっているということは理解する」ということになるかもしれない。
 「神」ということばがあいまいすぎるなら(あるいは、個人的すぎるなら)、「真理」と言い換えてもいいかもしれない。リンゴがある。リンゴという呼び名(ことば)がある。一個のリンゴは具象であり、それをリンゴと呼ぶことばは抽象である。そのときの具象と抽象を結び、イコールにするのが「真理」。ひとはそれぞれの「真理」を持っている。つまり、自分自身の「抽象能力」を「具象」と結びつけ、具象と抽象を行き来しながら、世界を把握している。そのときの「世界像」は無数になる。この「無数」を理解することはできない。「無数」を「一」にひきもどす「肉体」の存在を「意味を生きているもの」として受け入れるしかない。そういうことを、イスラム教徒(この映画に出てくるトルコ人)はやっているのだと思う。こういう生き方しかできないのだ。
 こんなことを書いても映画の「感想」にはならないし、「批評」にもならないとはわかっているのだが、私は、こう書くしかない。映画を見ながら考えたこと、感じたことは、いま書いたようなことなのだ。書きすぎているかもしれないし、書き足りないために、ごちゃごちゃになっているのかもしれない。
 しかし、この映画の「読まれなかった小説」というのは、なかなか味わい深いタイトルである。ひとりひとりの「ことば(人生)」は、結局「読まれなかった小説」なのである。ひとは「語る」。「ことば」を生きる。しかし、それは「神との個人契約」なので、他人に読まれ、共有されることはない。共有があるとすれば、夫婦という肉体、親子という肉体、さらには友人という肉体(ひとりひとりは、絶対的に違う)という感じを持ったまま、時間を生きているということだけなのだ。言い換えると「小説」を読んで「理解」できるのは、「肉体」を共有したことがある限られた人間だけである。その「共有」にも「誤読」が入り込むし、そうではない人間との間では、ただ「誤読」だけが存在するということにもなる。
 自己弁護をしておけば、私は「誤読」を生きる人間である。「誤読」しかしない人間である。私は生き方として「誤読」を選んだ。この映画の感想も、そういう意味では「誤読」の産物である。

(2019年12月13日、KBCシネマ1)