嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(47) | 詩はどこにあるか

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* (あるおもいがことごとく崩れさろうとも)

やがて川の水が澄みはじめるのをじつと待つていよう
ひややかな早春の水面に帽子の影が生あるもののように映るとき

 詩を読むとき、一行一行読む。詩につづきがあっても、つづきがないかのように、一行終わるごとに、ことばの動きを確かめる。味わう。
 この詩にもつづきがあるのだが、私は、つづきがないものとして読む。そうすると書き出しの三行は、倒置法で書かれたことばのように動き始める。
 早春の川もに帽子姿の自分が映る。たぶん学生帽だろう。嵯峨はまだ学生だ。そして、川の流れのなかで「あるおもい」が崩れて流れていく。崩れるときに、それは濁る。しかし、濁りもかならず澄む。そう信じて、川の流れを見ている。
 「早春」は「青春」でもある。青春のある時間に、そういう思いで、川の流れを見たことがあるひとは多いだろう。青春は駆け抜けてゆくが、同時に青春には何かを「待つ」時間もたっぷりあるのだ。







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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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