嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(28) | 詩はどこにあるか

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* (男のかなしさを知るまい)

おもいきり太鼓を打ち鳴らして
大きく胸を張つて歩いていく
だれかきてそのいじらしい機会をすばやくとらえて放りこめ
しずかなしずかな古里の入江に

 「故、長峰英七に」という註釈がついている。
 太鼓を鳴らしたあと歩いていく男の姿を「いじらしい」と呼ぶ。そこに目が(意識が)行ってしまうが、直前の「だれかきて」ということばの方に「不思議」がある。つまり「切実さ」がある。嵯峨にしかわからない「正直」がある。
 「来る」は「男のそばに来る」である。遠くからみつめていることでは「知る」ことにならない。「とらえる」「放りこむ」も「比喩」ではない。つまり、頭で処理する動きではない。そばに「来た」もの、いっしょに生きている人間だけにできることである。
 嵯峨には、長峰といっしょに生きていた時間があるからこそ、こう書けるのだ。








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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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