閻連科『愉楽』(河出書房新社、2015年03月30日3刷発行)
村上春樹がノーベル賞を逃した日、私は「閻連科が、いまいちばんおもしろい」というような話を知人とした。何冊かの本の感想はすでに書いているので、まだ書いていない『愉楽』の感想を書いておく。(すでにいろんな人がいろんな批評を書いていると思うけれど。)
帯にこんな紹介文がある。
真夏に大雪が降った年、障害者ばかりの僻村・受活村では、レーニンの遺体を購入して記念館を建設し、観光産業の目玉にするという計画が始動する。
これだけで、もう「デタラメ」(荒唐無稽)なことがわかる。いわゆる「現実」を描いていないということが、わかる。でも、「小説」だから人間が出てくる。人間は「肉体」をもっている。人間が動けば、どうしたって読者の「肉体」も動く。「動き」が共有される。その「共有」されるということは「デタラメ」ではない。
もちろん、ふつうの人間にはできない「動き」というのは、ある。しかし、それを「ことば」でできるかのように書くことができる。ことばは「肉体」の限界を知らない。書かれている「肉体」の動きに刺戟され、読者の「肉体」も自然に動いてしまい、それがなんとも楽しい。
究極の「リアリズム」がそこにある。
「ことば」で考えることができる。それは、「肉体」でできることでもある。少なくとも、「肉体」は、それをしたい「欲望」をもつ。そして、欲望が生まれた瞬間、「肉体」は無意識に動くのである。そこに人間の避けて通れない「リアル」がある。裸の女を見て勃起するようなものである。勃起を引き起こすのは裸の男であるかもしれないし、死にそうな老婆かもしれない。動物、ということもあるだろう。えっ、そんなことが、と誰かが思ったとしても、それは単にそのひとの「欲望」が貧弱だっただけ。人間は、どんなことでも「欲望」できる。「欲望できる」ということが、「本能(生きる力)」なのだ。
「レーニンの遺体を購入して記念館を建設し、観光産業の目玉にする」というのも、「頭」のなかの「空想」ではない。どうしたって、「肉体」が動く。遺体を購入するには金を稼ぐというところから始めないといけない。「肉体」を動かして働かないかぎりは何も始まらない。
で、つぎつぎに、私が(そして、たぶん多くの読者が)想像したことのない「肉体」の動きが展開される。そんなことができるはずがない、というのは簡単だが、動かせる「肉体」があるのだから、そういうことができたってかまわない。そうしたいかどうかだけである。セックスと同じ。自分のしたいことがあれば、そうするだけだ。
ということは、これ以上書いてもしようがない。すでに「奇想天外」については多くの人が書いているに違いないと思う。
たとえば、谷川俊太郎は「帯」に、こう書いている。
読んでいるとどんどん面白くなってくる、だんだん怖くなってくる、その奥深い魅力。アタマでは分からない中国を、カラダが知った。
谷川は「カラダ」と書いている。私は「肉体」というこばをつかう。つかっていることばは違うが、たぶん、同じことを指している。
だから、もうこのことは書かないで、別なことを書く。
この小説を読み始めて、途中で、あれっ、と思う。
「第一巻(第一章、第三章、第五章)」「第三巻(第一章、第三章、第五章……)」。 「第二巻(第二章)」というような「偶数」のくくりがないのだ。ストーリーがめちゃくちゃなので、最初は気がつかない。ふと、「あれ、さっき読んだのは第一章じゃなかった? 今第三章だけれど、第二章は? 乱丁本?」と気がつき、目次で確かめると、偶数がないのだ。最初から「奇数」だけで構成されている。
わざとしている、といえば、それだけなのだが。
私は、非常に、非常に、非常に、つまずいた。私の「アタマ」のなかにある「中国人」とはまったく違う「思想(肉体)」の人間が動いている。
私にとって中国とは「対(二つ、偶数)」の国である。なんでも「対」でなっている。対というのは「一つ」と「一つ」であり、「対」とはその「一つ」と「一つ」がいっしょになって「別の一つ(完成された一つ)」になる。「陰陽」思想というもの、それをあらわしていると思う。
中国には「二つ」以上の数はない。「三つ」からは「無限」である。つまり数えられない。
そして、この「数えられない」(無限)こそが、閻連科の「思想(肉体)」なのである。もし「対」が生まれてしまったら、それを破壊して「奇数」にしてしまう。「奇数」にすることで、世界を破ってしまう。開いてしまう。言い直すと、完結させない。
その「証拠(?)」のようなものを小説のなかから探してみると。
中心的な人物のおばあさんには四つ子の姉妹がいる。ひとりが対をみつけて双子になる。双子が対をみつけて四つ子になる。ここまでは「偶数」の中国思想。でも、その四つ子のなかにひとり、とても小さい女の子がいる。「蛾」のように小さい。(もともと四人とも小さいのだが。)四つ子(偶数、対)だけれど、どこか「破綻」している。このなかから、ひとりが男とセックスをすることで、ふつうの女にかわっていく。身長ものびるし、美人になっていく。またまた、それまでの世界が破られていく。
それよりもっと明確な「証拠」は、金稼ぎの見世物興行が成功し始めると、急いでもうひとつ見世物興行集団をつくる。「一つ」ではなく「二つ」になることで、金がますます入ってくる。つまり「対」が世界をよりよくする……はずなのだが、それは「円満解決(ハッピーエンド)」にはつながらない。大もうけしたはずが、とんでもない事件が起きる。破綻する。「一つ(孤)」にもどってしまう。「一つ(孤)」といっても「集団」ではあるのだけれど。
閻練科は、その「孤」を肯定している。「対」による「完成」ではなく、「対」を破る運動を、「孤」に託している。
私は、そう読むのである。「孤」こそが、想像力を解放し、あらゆる「リアル」を可能にする。「対」は「リアル」を抑制する。「対」はニセモノの「リアリズム」である。そう宣言している。つまり、「中国の古典(漢詩の世界など)」は「理想」が描かれているかもしれないが、それは「リアル」ではない。閻連科は、「文学」に対して異議を唱えている。
だから、読みにくい。だから、楽しい。新しいから。
ノーベル賞は、こういう冒険(開拓)にこそ与えられるべきものだと思う。
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