涙の皇后 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

涙の皇后
             自民党憲法改正草案を読む/番外302(情報の読み方)

 2019年11月12日の読売新聞(西部版・14版)社会面に、天皇の即位パレードの記事がのっている。

涙の皇后さま

 という見出しで、皇后が「時折、手で涙をぬぐわれた」と書いている。なぜ、皇后は涙を流したか。

 皇室に詳しい河西秀哉・名古屋大准教授(日本近現代史)は、皇后さまの涙について「沿道にきた大勢の人たちに励まされたという思いが涙にあらわれたのではないか」と指摘する。

 読売新聞は、そう「推測」させているのだが。
 私は皇室のことなど知らないから疑問に思うのだが、皇后は国民から「何を励まされた」のか。つまり、皇后は、どういうことで苦しんでいたのか。そのことが明示されていないと、何がなんだかさっぱりわからない。
 読売新聞は、「ぼんやり」とこういうことを書いている。

 皇后さまは皇太子妃時代、適応障害で療養に入り、一部から批判にさらされた。体調が万全でない中、訪れた各地で歓迎され、自信を取り戻してこられた。

 ようするに「皇太子妃」のときは批判され続けたが、皇后になってから批判されていない。それを実感して涙を流したということなのだが、皇太子妃時代の「批判」って何? 誰からの批判?
 簡単に言えば、男子を産まなかったこと(産めなかったこと)だね。そしてそれは、国民からの批判ではなく、「男系天皇/男子天皇」にこだわる人々からの批判だ。その当時は、安倍は「首相」ではないから、そういう批判にどれだけ関与できたか知らないが、内心では批判しただろうと推測できる。

 で、ここから、私は「妄想」するのだが。
 平成の天皇の「生前強制退位」(安倍が仕組んだ、と私は考えている)からはじまり、新天皇の即位、元号改正、パレードまでの一連の大騒ぎのあと、何がくるか。
 新天皇・皇后への「祝福」は、東京五輪が終わるとき、きっと終わる。「天皇制」をどうするか、という議論が活発になる。
 安倍は「男系天皇」にこだわっている。小泉時代に「女系・女性天皇容認論」が出たとき、悠仁を引き合いにだし「男系天皇」を維持できるのに「女系・女性天皇容認論」を打ち出すのはおかしいと強硬に反対した。そして「女系・女性天皇容認論」は消えてしまった。
 その安倍の「思考」をそのまま動かしていくと、絶対に、いまの天皇を「生前強制退位」させるという動きが出てくる。(すでに平成の天皇のとき、成功している。だから、それを繰り返す。)「制度」というのは常に「持続」される保障がなければ「制度」として成り立たない。常に次の天皇はだれか(皇位継承者)が想定されていないと意味がない。天皇になるためには、天皇になるための「教育」が必要である。
 いまの天皇に「皇太子」はいない。秋篠が「皇嗣」、次の継承者である。これまでどういう「教育」を受けてきたか知らないが、天皇になる(継承する)という意識はあまりないだろう。それにいまの天皇が自主的か、死亡かわからないけれど、天皇でなくなるとき、秋篠はもう高齢である。天皇を引き継いでも、短期間であり、「天皇制の安定」という点では問題が起きる。どうしたって、その次の悠仁が「実質的な皇位継承者」ということになる。そのための「教育」も始まるだろう。
 そうなったとき、皇后の「立場」はどうなるのか。ふたたび、男子を産めなかった皇后という立場に逆戻りするのではないのか。そのとき「批判」は浴びないかもしれないが、「無視」がはじまるだろう。存在しているのに、「いない」存在になるのだ。それだけではない。「存在しなかった」になってしまうのだ。
 私はテレビを見ていないので、はっきりとは知らないのだが、安倍は即位パレードで車の窓を開け、車内から国民に向かって、天皇のように手を振っているというニュースをネットで読んだ。平成の天皇を退位させ、いまの天皇を誕生させたのは安倍だ、ということをアピールしたのだろう。天皇は「象徴」だが、それをあやつっているの権力者としての存在をアピールしたのだろう。安倍は、このあと「悠仁天皇」が誕生するまでさまざまな画策をするだろう。「悠仁天皇」が誕生したら、別の車ではなく、「悠仁天皇」と同じオープンカーにのってパレードするはずである。
 それはやりすぎだ、そこまではしない、と多くのひとは思うだろう。だが、「男系天皇」にこだわる人間がいて、その集団が安倍の「悠仁天皇」構想を支えているのだから、それは必ず実現する。安倍は、そのときは完全にと臭い者になっているから、何でもしてしまう。
 そのとき雅子は、自分の人生は何だったのかと振りかえり、悔しく、悲しい涙を流すだろう。パレードで流した涙のことは夢の夢、はるかな幻となって消えているに違いない。そして、私たちは知るべきなのだ。それは単に皇后の人間性を否定するだけではなく、皇后の人間性否定を通して国民の人間性を否定することにつながってくる。人間を「国家の維持」の道具としてつかう、ということがもっと徹底されるのだ。この場合の「国家」とは「国家権力」であり、「安倍独裁」と同じ意味である。
 「男尊女卑」丸出しの、いまの「天皇制」がかわらないかぎり、「雅子の悲劇」は繰り返される。安倍が首相でいるかぎり、「人間性否定(人間性無視)」の社会がつづくのである。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。