嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(73) | 詩はどこにあるか

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* (文字に時を託したことがある)

 抽象的にはじまる詩は尻取りのように「時を人間に託したことがある/人間に愛を託したことがある」とことばを入れ替えた後、転換する。

生と死との間に架かる透明な橋
ぼくは風に吹かれながらその橋を渡つて行つた

 なぜ「渡つて行つた」と過去形なのだろうか。それは「託したことがある」が過去形だからである。「託した」が過去、「ある」は現在。いま、「過去」を思い出している。
 それが「渡つて行つた」になる。つまり、渡つて行つたのあとには「ことがある」が省略されている。
 「愛」は尻取りの力を借りて「生と死」のあいだへ大きく飛翔している。愛をことばにし、愛の時間を生きることで人間は人間になる。人間は「生と死」の間にかかった橋である。そういうことを思ったのだろう。



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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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