ガブリエレ・ムッチーノ監督「家族にサルーテ!イスキア島は大騒動」(★★) | 詩はどこにあるか

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ガブリエレ・ムッチーノ監督「家族にサルーテ!イスキア島は大騒動」(★★)

監督 ガブリエレ・ムッチーノ 出演 ステファノ・アコルシ、カロリーナ・クレシェンティーニ

 登場人物が多すぎて、ついていけない。イタリアでは有名かもしれないが、あまり顔なじみのない俳優ばかりなので、人間関係が覚えきれない。
 ストーリーは両親の「金婚式」の祝いに集まった家族(親類?)が嵐のためにフェリーが欠航して帰れなくなる。どうしても一泊しないといけない。あれこれしているうちに、登場人物それぞれの家族の問題(主に男女のいざこざ、あたりまえのことながら)が噴出してきて、ドタバタにある。
 というものなのだが。
 これが意外と「ごちゃごちゃ」してこない。「ひとつ」にまとまっていかない。つまり「いくつもの」どたばたを見たという感じは残るのだが、その「どたばた」から「結論」が出てくる(生まれる)という感じがない。これが「登場人物が多すぎる」という印象につながる。どんなに登場人物が多くても、それが「ひとつ」のストーリーに向かってまとまっていくなら、なんとなく「印象」は「ひとつ」になる。
 この「ばらばら」感は、いったい何なのか。
 と考えたとき、思い出すのは、和辻哲郎「イタリア古寺巡礼」。そのなかで和辻はシスティナ礼拝堂の壁画を見たときの印象を、「こんなにごちゃごちゃ描いているのに、ごちゃごちゃしていない。ここにはローマ帝国の『分割統治』の思想が生きている」というような具合に書いている。
 「分割統治」。これが、たぶん「イタリア人気質」なのだろう。この映画では、それは「両親」がいて、「子供たち」がいて、その「子供たち」がそれぞれ「家族(家庭)」をもっている。騒動は各家庭で起きる。「分割統治」だから、騒動は常にそれぞれの「家族(家庭)」のなかで展開される。そして、収束する。「家族」と「家族」が交渉しているように見えるシーンもあるが、それは「形式的」交渉であって、その交渉では登場人物の「心情(感情)」は変化しない。「心情(感情)」が変化するのは、あくまでもそれぞれの「家族(家庭)」内部の男と女の問題である。言い換えると、だれひとりよその家族(家庭)の恋愛問題にふれることで、触れた人自身の「心情/恋愛」が変化するわけではない。
 わっ、ばらばら。ぜんぜん「結末」に向かって動いていく「ひとつ」のストーリーがない。
 で、まあ、イタリア人ってこんな感じなのかと「理解」するには役立つが、そこから影響を受け、考え込むという映画ではないなあ。なんだか「めんどうくさい」という印象が残る。
 (KBCシネマ2、2019年07月27日)