あるのは夜ばかり
ぼくの顔から 手足から 全身から昼がぬけ落ちてしまつたのだろう
「ぼくの」顔から、手足から、全身から昼が抜け落ちても、それは「ぼくの」ことであって、「ぼく」以外のところに昼は存在しているかもしれない。むしろ、「ぼく以外」のところに昼が存在するから「ぼくから」昼が抜け落ちたと感じるのではないだろうか。もし、「ぼくの周囲」に昼が存在しないのなら、「ぼくから」昼が抜け落ちるとは意識しないかもしれない。
というのは、理屈。
夜になって、「ぼく」も夜を生きている。昼は昼の時間を生きている。「時間」と「ぼく」という存在が融合していたときがあった。それが理想の「時間」と「人間」とのありようだと言っているのかもしれない。
「ぬけ落ちる」という生々しい肉体を刺戟する感覚が「一体感」があったことを語る。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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