パベウ・パブリコフスキ監督「COLD WARあの歌、2 つの心」(★★★)
監督 パベウ・パブリコフスキ 出演 ヨアンナ・クーリグ、トマシュ・コット
恋愛の描き方は、会話の仕方に似ている。日本人(同士)の会話は、相手の反応を見ながら少しずつ進む。ときには話していることばを相手が引き継いで語り始める。ふたりの共同作業といえば共同作業だけれど。外国人の会話というのは、話し始めたら話は最後まで言ってしまう。言い終わってから、相手が話し始める。恋愛も「私はこんな風にあなたを愛している」「私はこう愛している」と語り終わってからセックスがはじまる。「ことば」ではなく「しぐさ」も含めてだけれど。
で、こういう「恋愛」を見ると。私なんかは「恋愛」を見ている感じがしない。独立した「個人」と「個人」が、たまたま出合い、ひとつの時代を生きたという印象の方が強い。こんなに「個人」として「独立」したまま、自分の思いを語るだけで、それが「恋愛」なのか、という、なんというか「圧力(重さ)」のようなものを感じてしまう。「恋愛」というよりも「思想劇」だなあ。
この映画の主人公(女性)はポーランドの「いなか舞踊団(歌劇団?)」の一員であり、やがて歌手として成功するが、やっぱりポーランドのいなか(?)へ帰っていく。そういうストーリーのなかで、私は、ふたつのセリフに驚いた。「個人」というものの「自覚」の強さにうならされた。
ひとつは主人公自身のことばではない。公演でスターリンを讃える歌を歌わせる計画が持ち上がる。舞踊団の女性指導者は「いなかの人間は指導者を讃える歌なんか歌わない」と主張する。結局、押し切られて歌うことにはなるのだが、このときの「いなかの人間」の「定義」が私には非常に納得がいった。私もいなか育ちである。「偉い人」なんか関係ないと、いつも思う。自分の生活があるだけ。誰が偉かろうが、そのひとを讃えたくらいで苦しい生活は変わらない。そんな他人のことなんか知ったことではない、と思う。
もうひとつは、男が女に亡命を持ちかける。しかし主人公はついていかない。再開したとき男は「どうして来なかったのか」と質問する。女は「自分に自信がなかった」と答える。「男の方が自分よりはるかに優れていて、対等ではない。だからついていくことができなかった」。これは「恋愛」よりも「個人」を重視した生きたかである。「恋愛」というのは自分がどうなってもかまわないと覚悟して相手についていくことだと私は思っていたが、この女はそうは考えていない。あくまで「自分」が存在し、「自分」をどう生きるかを考えて動いている。「恋愛」もその「一部」である。「自分の生き方」は自分で決める。「自分を自分に語る」。そのあとで相手と話す。そのときの「ことば」は完結している。
こういう「まず自分がいる(自分を完結させる)」という生き方だから、二人は別れ、それぞれの恋人(夫や妻)との暮らしの一方、それとは別に昔からの「恋愛」も平行させて生きる。「恋愛」は出合っているふたりの間で動くものであって、それぞれの「背後」は関係がない。「背景」とは関係なく「個別の恋愛」として「完結」させることができる。「いなか」の、「土着のいのち」そのものの恋愛を見る思いがする。
そうか、「中欧(東欧)」というのは、こういう文化なのか、とも。
映画の最初の方に、「いなかの歌」を集めているシーンがある。テープを聞きながら、「まるで酔っぱらいががなりたたている」という感想を舞踊団を計画しているひとりがもらすが、その「酔っぱらいのがなりたて」の歌がとてもいい。歌は人に聞かせる前に、まず自分で歌うもの。その人が「完結」させるもの。つまり「聴衆」を必要としていない。その歌い方にも、会話や恋愛に通じるものを感じた。
映画は、最後は、ふたりが「恋愛」を成就させるのだけれど、成就した恋愛よりも、そこへ至るまでの「自己主張(自己完結)」のぶつかり合いの方が、強くて、とてもいい。モノクロのスクリーンが、この映画に、独特の強さを与えているのもいい。
(KBCシネマ、スクリーン2、2019年07月11日)