(わたしの右)という詩を書いた女が
どんなに大きな世界を左に持つているかぼくは知らない
しかし、「どんなに大きな世界を右に持つているか」も知っているとは言えないだろう。詩のことばが「右の世界」のすべてではない。むしろ「右」について書かれたことばに触れることで、「左」が「知らない」まま目の前にあらわれてきた。
ただ「ない」ままなので、それは「無」、あるいは「死」と親和する形になる。
もし氷河が厚くそこまで迫つていたら
男たちはひとり残らず凍死して果てるだろう
この展開は、とても自然だ。
嵯峨はこのあと、連を変えて、ことばを独立させる。
それでも一つの唄は残る
あかあかと燃え落ちる一つの宝珠橋が
「一つ」が繰り返される。それは「残る」、ただし「燃え落ちる(喪失する)」という形で。
この「唄」と「宝珠橋」は、「右」と「左」を言いなおしたものであり、「右」と「左」は「ふたつ」ではなく「一つ」なのだ。「無」あるいは「死」の前では。
この詩には書かれてはいないが「ある」という動詞が、この詩を支えている。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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