嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(11) | 詩はどこにあるか

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* (ぼくの影はいつも)

ぼくの影はいつもぼくの生について語りたがつている
太陽が斜からさしてくると
ぼくは影の重さで傾きながらそれがうまく掴まりそうだ

 「語りたがつている」は、「語っている」とは違う。まだ「語っていない」。つまり、ことばになっていない。でも「語りたがつている」ことは、わかる。
 これは不思議な「均衡」である。
 「均衡」だからこそ、「重さで傾く」ということも起きる。「均衡」がくずれる。「斜」は「均衡」がくずれることを象徴している。
 「掴まりそう」は微妙だ。嵯峨は、ぼくはそれをうまく掴まえられそう、という意味でつかっていると思うが、逆にぼくが掴まえられそう、とも読むことができる。
 「ぼく」と「影」は分離できないものである。だからこそ、瞬時に主客が入れ代わるのかもしれない。


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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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