愛するということには
地名がない
「愛するということ」は「土地」ではない。しかし嵯峨は「土地」のようにとらえて、「名がない」と言う。言い換えると「名前をつけない」。
抽象的な、あまりにも「比喩的」な表現である。
「愛するということ」と嵯峨は、わざわざ「名詞」に仕立てているが、「愛する」という動詞そのものとして見つめ、「氏名 人間はそれをなぜつけたか」という断章と結びつけて読みたい。「愛する」は動詞である、動詞は存在の運動をあらわす。存在(名詞)が前提になっている。あえて言うならば「愛する」という行為は「愛する」という「名」をつけられている。ある行為を「愛する」と名づけた。「名づける」は「呼ぶ」でもある。「地名がない」のではなく、必要としない。「呼ぶ」という行為だけがある。
死んだあとの土地にはただ白い地名があることを
「愛する」には「地名がない」、死んだあと「地名がある」。行為は肉体の中に記憶として残る。思い出が「ある」。それには「名前」はいらない。思い出すという動詞が、ただあるだけだ。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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