池澤夏樹のカヴァフィス(120) | 詩はどこにあるか

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120 退屈な村で

 詩は前半、後半の二部に分かれている。

彼は退屈な村で働いている。
ある会社の事務員で、とても若い。
二、三か月先の日を彼は待っている。
二、三か月すれば仕事が減る。
都会へ出て行って、あそこの活気、
あそこの娯楽に頭から飛び込める。
退屈な村で彼は時が過ぎるのを待っている。

 ここまでが前半。後半は、彼の性の夢である。後半にカヴァフィスの特徴が出ているのだが、前半もおもしろい。
 男色は「都会」と結びついているが、「退屈な村(田舎)」にも男色家、。若くて美しい男はいる。あたりまえのことなのだが、忘れられがちである。人の少ないところでは男色の機会が少ない。そのために田舎を舞台に男色が書かれることが少ないのだろう。
 田舎では、若い美しい男色家はどうしているか。
 ひたすら都会へ行ける日を待っている。「二、三か月」が繰り返される。「待っている」が繰り返される。そして「待っている」の「目的語」が「二、三か月」「仕事が減る」「時が過ぎる」とことばをかえながら動いている。
 繰り返しても「意味」は変わらない。言い換えても「意味」は変わらない。
 とは、言えない。
 そこが散文と詩の違いだ。散文では、こういう繰り返しは「むだ」である。整理すればもっと簡潔になる。けれど、詩は簡潔を好むと同時に、繰り返しの音楽を好む。

美しい若さ全体が肉体の情熱に燃え上がる。
美しい若さは美しい脅迫に場所を譲る。

 後半には、こういう繰り返しもある。

 池澤は、註釈で若者の仕事を推測している。

 おそらくこの会社は木綿の仲買業者なのだろう。収穫の季節が終ると仕事はぐんと減る。またこの当時、エジプトの木綿を売買していたのはもっぱらギリシャ人だったから、この若者もギリシャ系と考えられる。

 そうなのだろうが、若者をギリシャ系に限定してしまうのはつまらない。