池澤夏樹のカヴァフィス(98) | 詩はどこにあるか

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98 アレクサンドロス・バラスの寵児


戦車の輻が折れたからあのつまらぬ競走で
勝てなかったなどと言うつもりは毛頭ない。
今宵は良い葡萄酒と美しい薔薇のさなかに
過すとしよう。アンティオキアはわたしのものだ。
わたしは町で最ももてはやされる若者。
わたしはバラスの弱み、彼の寵愛の的。
明日、みんなは競走が公正でなかったと言うだろう。
(もしもわたしが無粋にもひそかにそう言いはれば、
あの追従屋どもは片輪の戦車を一位にもしたはずだ)。


 「言う」が三回出てくる。この変化がおもしろい。「言うつもりはない」。だが、だれかが忖度(?)して「言うだろう」。そのあとに「ひそかに言いはれば」がやってくる。「わたし」は、公には言わない。けれど「ひそかに」言う。そうすると、まわりの人間が「公に」言う。「ひそかに」だから、いつでも「そんなことは言っていない」と言い張ることができる。「公に」した人間が、「〇〇がそう言っていた」と秘密を言うわけにはいかない。そういうことを、この詩の主人公は知っている。
 池澤は、


 君主の寵愛を受けた若者が、それゆえに集まる連中の阿諛をむしろシニックに受け流している。


 と書いているが、「受け流している」かどうかは疑問だ。むしろ巧みに利用することを知っている。そして、それを楽しんでいるように見える。
 この若者は「戦車の輻が折れたからあのつまらぬ競走で/勝てなかった」とは言わない。絶対に言わない。けれど「戦車の輻が折れたからあのつまらぬ競走で/勝てなかったなどと言うつもりは毛頭ない」とは言うのだ。これが「ひそかに」のほんとうの意味だ。「否定形」をつかって他人を動かすことを知っている。
 「わたしはバラスの弱み、彼の寵愛の的」と言うとき、主人公は「バラスはわたしのもの」と言っていることになる。「わたし」が何も言わなくても、バラスが「戦車の輻が折れた」と一言言えば、それがすべてを動かすということも知っている。そして「ことば」は「声」に出さなくても、ひとには聞こえるものである。
 カヴァフィスは「声」に出されなかった「声」を聞き取り、ことばにできる耳を持っている。






 


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