池澤夏樹のカヴァフィス(95) | 詩はどこにあるか

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95 アンナ・コムネナ

 カヴァフィスの詩のおもしろさは、言いなおしと繰り返しにある。


しかし、真相を言えば、この権力欲の強い女性は
一つしか重要な悲しみを知らぬように思われる。
(自分では認めなくとも)この高慢なギリシャ女は
ただ一つの焼けつく苦しみしか知らなかった。
すなわち、狡知の限りをつくして
帝位を手中に収めんとしたのに、あと僅かのところで
厚顔なイオアニスに取りかえされてしまったこと。


 「権力欲の強い女性」は「高慢なギリシャ女」と言いなおされ、「一つしか重要な悲しみを知らぬように思われ」は「一つの焼けつく苦しみしか知らなかった」と言いなおされる。そして、この繰り返しを経ることで「ように思われる」ということばは消え、断定に変わる。
 ことばは繰り返すと、それがどんなことであっても「事実」になる。こころにとっての「真実」と言った方がいいのかもしれないが、ことばは共有されるものだから「事実」の方が正しいだろう。
 この不思議な魔術を、カヴァフィスは「音楽」の力を借りて実現する。
 「重要な悲しみ」が「焼けつく苦しみ」になったあと、「帝位を手中に収めんとしたのに、あと僅かのところで/厚顔なイオアニスに取りかえされてしまったこと」とことばが変化するとき、それはアンナ・コムネナの心理描写というよりも、読んでいる私のこころに変わる。アンナ・コムネナもイオアニスに知らないのに、怒りと憎しみが肉体の奥から沸き起こってくる。「あの厚顔なやつめ」「ああ、くやしい」。そういう「声」が自分の肉体の中から沸き上がってくる。

 池澤は、こう書いている。


ギボンは彼女について「紫衣の位に在りながら修辞学や哲学などの造詣が深かった」と書いている(『ローマ帝国衰亡史』第五三章)。


 私は歴史に対する感覚がおかしいのかもしれないが、カヴァフィスの詩を読んだあと、ギボンへと読み進み、アンナ・コネムナがどういう人間か知りたいとは思わない。この詩で充分だ。むしろアンナ・コネムナを離れ、権力指向の強い女、さらには権力指向しかできない男の精神へと、いま、ここにいる「人間」へと目が動いていく。








 


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