イングマール・ベルイマン監督「野いちご」(★★★★★)
監督 イングマール・ベルイマン 出演 ビクトル・シェストレム、イングリッド・チューリン
ベルイマン生誕 100年。デジタル版の上映。
私が「野いちご」を見たのは大学生のとき。当時、毎日新聞社が「名画シアター」のような催しをやっていた。ぼんやりした記憶だが、半年 500円で毎月1本の上映。小倉の井筒屋(デパート)ホールが会場。1本あたり 100円以下の料金、しかも毎回はがきで連絡が来るという、信じられない企画だった。でもさすがに、これでは赤字がかさむだけということなのだろう。私が見始めて2年しないうちに打ち切りになったと思う。
私はそのころ映画を見始めたばかりで、まだ映画の何を見ていいのかもわからずに、ただ見ていた。老人が夢見ているだけの、奇妙な映画という印象しかなかった。
今回見直して、あ、すごい、とただただ驚いた。
モノクロがとても美しかった。とくに最初の夢の白と黒の対比が強烈だ。主人公の顔が、建物の内部の闇(影)をバックに浮かび上がるシーンは鮮烈だ。影だから、実際は光はあるのだが、光を消してしまって闇にしている。無にしてしまっている。無といっても、日本人(東洋人)が考えるような、すべての存在を生み出す前の渾沌というのではなく、ほんとうに何もない、拒絶としての無。その無の中に存在する人間、という印象が強烈だ。
ストーリーとしては、老人(大学教授)の「夢」をつないでいるだけである。ロードムービーと組み合わせているところが、とても斬新である。なんといってもすごいのは、「グリーンブック」のような、あるいは「最強の二人」のような結末がないことだ。単に一日が終わったというだけだ。いまでも、誰かがこの手法で取ったらびっくりすると思う。移動は、登場人物をまきこむための「方便」にすぎない。
車の移動の途中で、場所が変わり、登場人物(脇役)が変わる。ある意味では脈絡がないのだが、脈絡がないだけに、登場してくる人間の姿がくっきりする。ストーリーにとらわれることがない。ストーリーなんてないのだ。人間が生きている、存在しているということ自体の中に究極のストーリーがある。生きている意味は、それぞれの人間の中にしかない。共有などできない。共有できない「存在としての人間」がいるだけだ。
このストーリーのない展開の中で、では、何が起きるのか。
女の感情が、肉体を突き破って出てくる。男(主人公)はそれに翻弄される。女の欲望の強さに男がついていけない。主人公は女に裏切られ続ける。恋人は別の男を選び、妻は別の男とセックスをする。それを主人公は見てしまう。そして、何もできない。
神は存在するか、存在しないか、というような議論も持ち込まれる。そういうことを話すのは男なんだけれどね。
で。
こういう展開の中で、主人公は何を見たことになるのだろうか。夢と思い出がいりまじりながら一日が過ぎていくとき、主人公は恋人や妻の裏切りを見ただけなのか。あるいは主人公が見たのは、女たちではなく、何もできなかった自分自身だったのか。ほんとうに生きているのは、女たちなのか、男の私のなのか。妻が死んでいるだけに、そんな疑問も浮かび上がってくる。
これは、こう言い換えることもできる。
誰かが何かを語るとき、それは対象について語っているか、それとも自分自身を語ることになるのか。
見終わると、突然、そういう「哲学的」というか、「文学的」というか、強い「問い」を突きつけらる。
まあ、こういうことは、「答え」を出さなくてもいい。衝撃を受けたという「事実」さえ、肉体に残ればいいことだと私は思っているのだが。
それにしても。
ベルイマンの描く女はなまなましい。肉体を突き破って感情がむき出しになる。映画なのだから、そこまでむき出しにしなくても感情がわかるのだが、ベルイマンは逆に考えているのかもしれない。映画なのだから、単に感情を動かすのではなく、肉体がスクリーンからはみ出すくらいに描かないと、映画にする意味がない。観客が耐えられなくなるくらいでないとだめ。観客の網膜を突き破って、観客の肉体に侵入していく、というところまで求めているのかもしれない。「役」を見せているのではなく、「女」そのものを見せている。だから、「そんな感情をぶつけられても、私はあなたの男ではない」と言いたくなる。こんな演技というか、「むき出しの感情」を監督から求められたら、女優はたいへんだ、と思ってしまう。
というようなことも二十歳になるかならないかの大学生のときは、わからなかったなあ。
(2019年03月16日、KBCシネマ2)