野沢啓「発熱装置(3)」 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

野沢啓「発熱装置(3)」(「走都」第二次3、2019年01月01日発行)

 野沢啓「発熱装置(3)」はいくつかの断章で構成されている。(と、私は思ったが、つながっているのかもしれない。)そのなかに、ヒュームの文章を引いたあと、感想を書いたことばがある。


そこまで言いますか
ほんとうはそんなこと思ってないでしょう


 この二行から、思うことがある。
 書く、というのは、どういうことなのか。

 他の人はどんなふうにしてことばを書き始めるのかしらないが、私はいつも結論を考えずに書き始める。きょうも、あ、ここから何かを書いてみたいなあ、と思って書き始めているだけだ。
 書きながら考える、というとカッコイイが。
 書き始めないと、ことばが動かない。そして、そのことばはどこへゆくかわからない。どこまで動くかなあ。見当がつかない。
 で。
 私が、この行に引かれたのは「ほんとうはそんなこと思ってないでしょう」に「同感」したからだ。ただし私の言う「同感」は、私の「誤読」かもしれない。野沢のことばに「同感」したのか、野沢の書いているヒュームに「同感」したのか、わからない。
 私は書けるだけ書いて、そこでことばをやめる。そのとき(あるいは、その直前)、あ、きょうはなかなかいいことばが出てきたな(結論っぽいな)と思うことがある。そして、それはいつも、「そんなことまで思っていない」ことなのだ。言い換えると、その「なかなかいいことば(結論)」は、私が考えたものではない。ことばが勝手につかまえてきたものだ。
 だから、私は、そういうときは、急いで終わりにする。
 このまま書くと、とんでもないことになるぞ。うさんくさいぞ。
 そして、次は、なんとかいま書いたこととは違うことを書かないと、と思う。

 そんなようなことを、野沢は、こういう具合に展開している。


そこまで言いますか
ほんとうはそんなこと思ってないでしょう
そう言ってみただけで
偏屈なおやじだ
でもそこがいいんだな
ひとをあざむくには
まず自分からだ
そこまでいくからひともいい気になる
一杯食わされる
なかなかできることじゃない
ことばはいのち
深く考えなければ
翔ぶことはできない
ときには嘘でもいい
嘘から出たまこと
そうして思考の糸は伸びる
どこにたどりつくのでもない
からみついたところが次のバネになる
気が向いたところで着地するだけだ
意味はあとからついてくる
かもね


 「そんなようなことを、野沢は、こういう具合に展開している。」と引用に先立って、私は書いた。だから、私の文章を読んだ人は、私の思ったことを野沢が書いているように誤解するかもしれないが、これは、逆。
 私はすでに野沢の詩を、先の二行だけではなく最後まで読んでおり、その記憶と交渉しながら、私が感想を書いた、というのが時系列的には正しい。
 でも、時系列なんて、関係ないな、と私は考えている。
 野沢のヒュームに対する批評も、時系列的にはヒュームがことばを書き、それを野沢が読んで、批評した。でも、野沢がいろいろ考えていることがあって、考えている途中でヒュームを読んだら、それに誘われるようにことばが動いたということもある。ヒュームは野沢のことばを定着させる効果があった。もし野沢が先にいろいろ考えていなかったら、こんな形の詩にはならなかったかもしれない。
 ことばと出会って、ことばがあふれてきて、形になってしまう。そういう運動があるだけなのだと思う。こういう出会いの「時系列」というのは、私の感じでは、出会った人がたまたま「年上」だった、ということくらいの意味しか持たない。その人がずーっと昔から考えてきたことであっても、それは私には関係がない。私の中に、そういうことばが、ことばにならずに生きていて、それがたまたまその人にであって動き始めたということだと思う。そして、大事なのは、これから先もことばが動き続けるかどうかであって、「年上」の人が有名なヒュームかどうか、そういうことは、とはでもいいなあ、と思う。
 大事なのは「思考の糸は伸びる」ということ。私のことばで言いなおせば(誤読を重ねれば)、「ことばが動き続ける」こと。たどりつこうが、絡みつこうが、同じこと。ことばは、ある瞬間、動けなくなる。
 で。
 野沢は「意味はあとからついてくる/かもね」と書いているが、私の認識では、「意味はあとからいくらでも捏造できる」。「意味」なんて、すべて自分の都合に合わせた「捏造」にすぎない。あとからしか作れないものなのだ。
 と、付け加えておく。





*

「高橋睦郎『つい昨日のこと』を読む」を発行しました。314ページ。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2500円(送料、別途注文部数によって変更になります)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
なお、私あてに直接お申し込みいただければ、送料は私が負担します。ご連絡ください。



「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168075066


オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(4)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com