粕谷栄市「上弦」 | 詩はどこにあるか

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粕谷栄市「上弦」(「現代詩手帖」2019年01月号)

 粕谷栄市「上弦」は、ある意味では何も書いていない。


 純金の櫛は、純金のしずかな怒りを持つ。純金のしず
かな怒りと純金の櫛の歯の繊細な輝きを持つ。
 純金の櫛は、純金のしずかな悲しみを持つ。純金のし
ずかな悲しみと純金の櫛の歯の繊細な輝きを持つ。
 純金の櫛は、そして、純金のそのほかの何も持たない。
純金の櫛であることの、その怒りと悲しみゆえに、ただ、
純金の櫛のかたちの虚無であるばかりだ。
 それゆえに、いよいよ遠い西の天で、純金の櫛は、既
に、純金の櫛であることも忘れた虚無であるばかりだ。


 「怒り」は「悲しみ」と言い換えられる。そして、言い換えられることによって「怒り」でも「悲しみ」でもなくなる。「虚無」になる。
 でも、そうなのだろうか。
 「怒り」と「悲しみ」が言い換えられる、言い換えられることで「おなじもの」になる。その結果、「怒り」と「悲しみ」が消え「虚無」になるのだと仮定して、「持つ」と「持たない」はどうなるのだろうか。
 「純金のそのほかの何も持たない」は「純金の櫛であることも忘れた虚無」と言いなおされたとき、それ以前の「持つ」の「主語」は何になるのか。「純金の櫛」でいいのか。あるいは「怒り」「悲しみ」が「主語」であり、「純金の櫛」を「持つ」のかもしれない。どちらが「主語」であり、どちらが「述語」なのかわからない。
 わからなくていいのだと思う。
 と書いてしまうといい加減だが。

 詩の最後は、こう書かれる。


 いかなる怒りと悲しみも持たない、ただ、純金の上弦
の月であるばかりだ。


 ここへたどりつくために、そう言うしかなかったのである。
 この詩の中では「ただ」ということばが何度もつかわれる。引用した部分だけでも二度つかわれている。「ただ」はなくても「意味」はおなじ。「ただ」は強調である。そして、強調のことばなのだが、何かを強調しているわけではない。もし強調しているのものがあるとすれば、ことばは強調するためにあるということだろう。

 強調も、もしかすると、「虚無」かもしれない。
 それでも強調せずにはいられないのだ。
 きのう読んだ谷川俊太郎の「イル」の「のである」もおなじだ。強調へ向かって動くことばがある。ここではない、どこかへ向かっていく、ということが詩なのだろう。







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