高橋睦郎『つい昨日のこと』(137) | 詩はどこにあるか

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137  鬼能風に

 誰の死を描いているのか。「能」を手がかりにすれば能役者か。愛煙家。死因は肺がんかもしれない。
 後半部が生き生きしている。「批判」というか、あきれ返っている。批判を含むから生き生きしているといえるし、批判は嫉妬から生まれるから生き生きしているのかもしれない。


しかも 根っからの頑健を信じて 疑いもしなかった
それというのも いつでも勃起する それだけの理由で
なんたる妄信 世には疲れ勃ちということもあるのだよ
ついでにいえば 臨終の一物は 染色体を後に残そうと
死神に抗って むなしく勃ちつづける というではないか


 「それというのも」というのは死んだ能役者のことばではなく、引用している高橋が言いなおしたことばだと思う。頑健を自慢するひとは「それというのも」という理由をみちびくことばなど必要としない。「おれは頑健だ。いつだって勃起する」と直接事実を語る。頑健「即」勃起。「即」はことばを必要としない。だからこそ「即」である。これを「それというのも」と言いなおすと、「事実」ではなく「論理」になる。「論理」だから批判に変わる、妬みに変わる、とも言える。
 未練がましく「ついでにいえば」という論理の追加(補強)がある。補強など必要としないのが「事実」というものなのに。
 高橋は、こうつづけている。


今のきみが纏っているのは 死出三途の川霧か タバコの煙か
(カロン カロン あれは渡し守の 疾く帰れの警告の鈴音)
慌ててきみが沈む河水さえ ニコチンの脂で吐気がしそうだ


 「吐気がする」というのは、追悼のことばとはいえないだろう。ふつうはこんなふうなことばをつかわない。しかし、そういうことばでもつかわないと、高橋は「きみ」を死の国に追いやることができない。
 愛が憎しみを生む。ここにも嫉妬が隠れている。そのために、ことばに不思議な強さがある。