高橋睦郎『つい昨日のこと』(135) | 詩はどこにあるか

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135  雪崩 那須スキー場献花台前にて


きみたち十七歳の七人 引率の若い先達を入れてつごう八人を
突然の雪の塊が襲い 呑みこんだ 誰もが予想しなかったこと


 と、事故のことを書いている。その「誰もが予想しなかった」を、高橋は、こう展開する。


おそらく 雪塊だってそう きみたちの匂い立つ若さを見て
急に惜しくなったのだ 数年のうちにむくつけき大人に
ついには無残な老人にしてしまうのが なんとも忍びなくて
そこで思わず知らず 走り寄り 覆いかぶさってしまったのだ


 雪、雪崩に「意志」を与えている。しかし、それは高橋の「意志」である。「思い」である。
 自然は非情、情けなど持っていない。意志なんかも持っていない。だからこそ美しい。人間の情けも意志も無視して動いているから、私たちは、人間そのものになる。その瞬間に、美しさが響きあう。
 自然に「意志」や「情」を与えてはいけない。自分の考え(欲望)を代弁させてはいけない。
 「思わず知らず」ということばがあるが、「何も思わず、何も知らず」を貫かないと自然とは言えない。

 詩は「人情」を描くものかもしれないが、「人情」が「論理」として動き始めると、窮屈で味気ない。


いずれにしても きみたちはとこしえに浄らかな十七歳


 この最終行は「論理的結論」ではある。しかし、それは「とこしえに浄らかな」ものというよりも、淫らとしか言いようがないものだ。