119 F・W・ニイチェに
ニイチェは鞭打たれる馬を抱きしめて慟哭し、狂気に落ちた。それから正気に戻ることはなった。その逸話を書いた後、高橋は、こう書いている。
だが 馬と馬方とあなたの出会いの三角形は はるか以前に用意されていた
それは 若いあなたがディオニュソスのギリシアを発見した あの時
その瞬間から 見えない手で発狂後のあなたは描かれはじめていた
この「結論」は「論理的」である。ディオニュソスを発見したニィチェはただ発見するだけではなく、それに飲みこまれていく。ディオニュソクス的要素があったからこそ、ニイチェはディオニュソスを発見できた。この「論理」の展開は「正しい」ものに思われる。そして「正しい」と思われるだけに、なんだかつまらない。「論理的」すぎる。ちっともディオニュス的ではない。
書き出しに戻ってみる。
考えつつ歩いていたあなたは見なかったが 行く手の大地が突然 罅割れたのだ
鞭打たれる駑馬と鞭打つ老馬方とが 地中世界から送られ 躍り出たのだ
あなたは突然馬身を抱きしめて慟哭 以後正気に戻ることはついになかった
この三行の方がはるかに詩としておもしろい。ディオニュソス的なものを感じる。
「大地が突然 罅割れた」「地中世界から送られ 躍り出た」は高橋の脚色というか、イメージであり、それが「事実ではない」(論理的ではない)というところが詩なのかもしれない。
「論理(常識)」を超えた躍動がある。
詩は、たぶん、論理を破って存在してしまうものなのだ。だから、どんなに「結論」を言いたくなっても、その「結論」を論理的に導き出してはいけない。
「論理」は説得力を持っているが、詩は説得力ではなく、もっと暴力的だ。説得するのではなく、反論させない、有無を言わせない。
「大地が突然 罅割れたのだ」「地中世界から送られ 躍り出たのだ」と言い切ってしまうことが詩なのだ。