高橋睦郎『つい昨日のこと』(118) | 詩はどこにあるか

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118  声

二千数百年後の詩人も 若者たちを愛した
火曜日の夕べごとに陋居に集う彼らの前に立ち
難解をもって鳴る自作を 朗朗 誦するのを好んだ

 これは高橋自身の「自画像」だろうか。

その声がいかに魅力的だったかを 彼らの何人もが証言している

 「自画像」を「彼ら」の証言で補強するのは、ナルシストだ。だからこそ高橋なのか、それとも別の人の声なのか。
 よくわからない。

 私は一度だけ高橋の「朗読」を聞いたことがある。とても澄んだ響きで、感情の動きを重視した読み方だったので、非常に驚いた。感情を動かして読むのだ。
 それは高橋の詩ではなく、ある中国人の詩を翻訳したものだった。予習してきたわけではないようだが、熟読している感じの朗読だった。初めての楽譜でも、すらすらと歌える人がいるように、高橋は初めて読む詩でも、感情をこめて、まるで自分のことばであるかのように読むことができる。「ことば」が肉体のなかにすべて入っている。「文体」の引き出しがたくさんあって、そのことばがどの「文体」に属しているか、即座に判断できるのだろう。「ことば」が「文体」へ帰っていく感じといえばいいかもしれない。
 感情に戻っていえば、感情を「文体」のなかで動かしているといえばいいのか。「文体」のなかにある感情と、共鳴しながら、和音をつくるのだ。
 こういうことができるのは、高橋の「声」の奥底に「伝統」があるからだ。
 「二千数百年」という「時間」が冒頭に書かれているが、「時間」をくぐり抜けることで初めて生まれる「文体/感情」を高橋は「肉体」として獲得している。
 一方、こんなことも考える。
 私は高橋のことばの響きのなかに「死」を感じるが、それは「伝統」を感じるというのに等しい。「生きている」というよりも「死の歴史」といえばいいのか。もし高橋の声が生きているとしたら、それは「歴史になった文学」が生きているのだ、と思う。