高橋睦郎『つい昨日のこと』(112) | 詩はどこにあるか

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112  J・キイツに


まだ見ぬ 目見えることついにない ギリシアへの思いは
あなたの内側で滾る血潮となり 血しぶきとなって降り
青年像の 処女像の 処女神殿の洗い晒しの白を 真紅に染めた


 こう書くとき、高橋はギリシアを見ているのか。キイツを見ているのか。キイツが血(潮)を集中させることでつかみとる、そのときの血を見ているのか。
になっている。
 おそらく、血だ。、この詩は「血潮」と「真紅」が中心になって動いていく。しかし、私はその「色」よりも、「まだ見ぬ」を「目見えることついにない」と言いなおす、その高橋のことばに強く引かれる。ことばが繰り返される。「否定」が繰り返される。そのとき、「肯定」が強く浮かび上がる。「ギリシアへの思い」はギリシアを「肯定」する思いである。


そして あなたにうたわれたギリシアは 永遠を得た
血しぶきの永遠 真紅のギリシア


 キイツを通ってギリシアになろうとしている。
 高橋はすでにギリシアを知っている。しかし、その知っているギリシアではなく、ギリシアを直接知らないキイツの、キイツだけが知っているギリシアになろうとしている。

 知らないからこそ、知ることができる何かがある。
 それはまるで、ギリシアが「集中力」で、知らない世界を論理的に作り上げる作業に似ている。
 「知らない」からこそ、「知る」ことができるものがある。
 こう書いてしまうと、どこかからソクラテスが現れてきそうだ。
 ただし、キイツと「論理」ではなく、「血」を動かす。「血の集中力」が作り上げるギリシア。真紅のギリシア。
 それは私の知っているギリシアではないし、高橋の知っているギリシアでもないのだろう。だからこそ、刺戟的だ。