高橋睦郎『つい昨日のこと』(111) | 詩はどこにあるか

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111  モツァルトの墓


ギリシアの詩人たちは 言葉を紡ぐ人であり
それらの言葉を竪琴の絃に乗せ 音に移す人
だから あなたは彼ら 彼女らの直系の人

 
 モーツァルトとギリシア(人)を結びつけて考えたことは、私は、ない。考えるというよりも、感じることがない。私は音楽に疎いし、音痴であるからかもしれない。


彼ら 彼女らの言葉が 雪白の山嶺から来たように
あなたの音も 青空の見えない奥から訪れたもの


 この「対句」の「意味」が私にはわからない。「ギリシアの詩人」とは誰を想定してのことなのかわからないが、私はギリシア人がインスピレーションに突き動かされているとは思えない。出発点はインスピレーションかもしれないが、それを上回る「集中力」がギリシアではないだろうか。集中力でことばを結晶させる。
 モーツァルトも集中力の人なのだろうけれど、「天性」(天才)という感じの方が強い。
「意味」はわからないが、この対句にはおもしろいものがある。ギリシア人のことばは「雪白の山嶺から」来るのに対し、モーツァルトの音はさらに遠い「青空の見えない奥から」来る。
 比喩は一種の「動詞」であり、比喩のなかの「遠くから来る」が動き、遠くがさらに遠くなる。これが比喩という運動の必然。逆の対句、

彼ら 彼女らの言葉が 青空の見えない奥から来たように
あなたの音も 雪白の山嶺から訪れたもの

 は、ありえない。
 これはことばの動きの法則であり、この法則のなかにことばの「音楽」がある。

 ところで。音階を発見したのはピタゴラスだったと思うが、ピタゴラスの音階は「数学」と「物理」である。つまり「法則」であり「論理」である。モーツァルトは数学、物理の「論理性」を目指しているのか。論理性から出発しているのか。
 私は、そんなふうには感じない。ギリシアの「論理」にしたがってモーツァルトの音が動いているとは感じられない。もしギリシアの論理に従っているのなら、あんなにしつこい繰り返しはないだろうなあと思う。
 ギリシア人は「純粋(透明)」へ向かって集中するが、モーツァルトは「純粋」のなかに酔って動いている。
 単なる直感で言うのだが。