高橋睦郎『つい昨日のこと』(110) | 詩はどこにあるか

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                         2018年10月26日(金曜日)
110  対話について


身近な話題から始めて 試行錯誤をくりかえし
すこしずつ すこしずつ 本質に近づいていく
かの路傍での対話法こそ 素描の原点ではないか


 「109  素描について」で、私は「対句」について書いた。「対句」の「対」は「対話」の「対」である。正確に向き合う。正確に向き合うと、違いが見えてくる。なぜ違うのか。それを考える。そこから、ことばが動く。
 プラトンの対話篇(ソクラテスの対話のことば)は、たしかに、そんなふうに構成されている。
 この運動を高橋は「本質に近づいていく」と書いている。
 たしかにそうなのかもしれないが、私は「本質」でなくてもいいのではていかな、と考えている。
 「本質」はどこかにあるのではなく、あるいは「イデア」のようなものではなく、「対」になって動くという運動そのもののなかにある。

 それがたとえば、愛、セックスという形をとるときにも存在する、と考える方が楽しい。
 ソクラテスもプラトンも「結論」を求めていない。「結論」は「わからない」。知っていると思っていたことが、実は何も知らない。これが「本質」というのでは、私は、はぐらかされた気持ちになる。
 「ほんとう(本質)」かどうかは、動いていることが、気持ちがいいかどうか。自分の納得がいくものかどうかという「肉体的」な反応のなかにある。

 詩の感想から脱線したか。
 でも、脱線するという「対」の形もある、と私は思う。
 向き合うことで、私は、こんなふうに動いてしまう。
 それは高橋が求めているもの、高橋が予想したものと違うかもしれない。
 私が予想したものとも違う。(私は予想などしない)。でも、こうことばが動いたなら、それは私のことばが求めていた動きなのだと信じるしかない。