高橋睦郎『つい昨日のこと』(109) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

109  素描せよ

 「素描せよ と巨匠は弟子を叱咤する」。それに触発されて、高橋は「ことば」による素描を考える。さらに、ことばをこえて、「日日生きること自体」が素描ではないかと考える。


たとえば 窓を押し開け 新しい朝を入れること
たとえば 白湯を含んで 口中の闇を目覚めさせること


 この二行は、高橋の日々の暮らしをそのまま素描したものか。
 美しい対句になっている。
 「窓」を「押し開ける」。しかし出て行くためではない。「(受け)入れる」ためである。「白湯」を「含む」。しかし、内部に入れるためではない。内部にあるものを、外に出すためである。「口中の闇」は白湯といっしょに「肉体」のなかに飲み込まれていくのではなく、ほっと一息つく、その息といっしょに外へ出ていく。
 「窓」の行のなかに対があり、「白湯」の行のなかにも対がある。そして、「窓」の行と「白湯」の行も対句になる。
 この美しい動きの対句は、何のためにあるのか。


宇宙の成就という 顔のない者の無際限の大作のための


 高橋は、最終行でそう書いている。あらゆる素描は「宇宙」をつくるためのものである、と。そのとき「無際限」とは、どこまでも拡大の運動をつづけるという意味になる。
 高橋が書いた対句は、一方方向ではない動きから成り立っていた。
 宇宙の拡大も、一方方向ではないのだ。光は外へ外へと拡大する。一方、内部では闇が拡大する。凝縮する。二つは相反しているからこそ、互いを鮮やかに浮かび上がらせる。
 しかし、この「宇宙」を「顔のない者」の大作と結びつけたのはなぜだろう。
 「顔のない」は「誰のものでもない」へとつながっていくのか。
 よくわからない。
 「誰のもの」でもないのなら、それは「真理/事実」のものか。高橋のことばは「客観」へとつながるのか。そう読めば、たしかにそれはギリシア的ではあるが。