高橋睦郎『つい昨日のこと』(104) | 詩はどこにあるか

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104  目

 目は、死んだらどうなるのか。火葬されたあと、目はどうなるのか。


向いあう長箸により 熱い骨が砕かれ 挟まれあうとき
生前 存在の中心にあった目は もはやどこにもない


 この「ない」に、私は、ぞっとした。
 火葬後に骨を拾うということを、私も何度かしたことがあるが、そのとき私が見ているのは骨である。ほかのものは見ない。つまり、目がどこにあるかなど考えたことがない。だから、ぞっとした。
 このあと「かの人は目の人だった」ということばが出てくるが、「かの人」よりも、この詩を書いている高橋の方が、はるかに「目の人」なのだと思う。
 いったい、何を見ているのか。高橋にとって「目」とは何か。「かの人」に託す形で書いている。目は……。


ただし 見られるもののいのちを吸いとる 怖しい穴だった と


 高橋も、見ることで「他者」のいのちを吸い取っているのだろうと思う。
 この詩は「いくつもの夏 いくつもの若い裸の腿」という行で始まっている。いわばセックスを書いているのだが、私には高橋の書いているセックスがまったくセックスとして感じられない。高橋が「目」でとらえ、それを「ことば」にしたあとは、その「肉体」(若い裸)からは、いのちが吸い取られてしまっているのだろう。そこにあるのは、いのちを吸い取られた「脱け殻」にすぎない。いや、「脱け殻」ですらない。


穴なら死後も在り 未来も 永遠に在りつづけるだろう
在りつづけて 無をさえ 空をさえ 吸いつづけるだろう


 高橋が「目」でセックスした相手は、「無/空」なる。「無/空」と書くと、東洋の豊かな「いのち以前」を想像させるが、高橋の書いているのは豊かさとは無縁の「無/空」である。
 ギリシアの哲学者が発見した「ない」があるというときの「ない」である。

 私は高橋に一度だけあったことがある。そのときのことを思い出した。想像はしていたが、やはりぞっとした。「死のにおい」を通り越して、それが「ある」ことは理解できるが、絶対に体験できない「死」そのものが生きているという感じ。いつも「死」と交流していると感じた。高橋にとっては、「死」は「ある」ものなのだ。