100 贈物
好色なソクラテス いやプラトン
クセノポンですらない ただの少年愛者
二丁目アテナイの夜の迷路を ほっつき歩いて
と詩は始まる。しかし、どこにも具体的なことは書かれていない。ソクラテス、プラトンに「好色な」という修飾語をつけても、ソクラテス、プラトンが好色な人間になるわけではない。だから、私も「好色な」人間にはなれない。「好色な」という形容詞が意識を整理するだけである。高橋は、「好色な」ということばをつかっていることはわかるが、どういうことを「好色」と感じているか、そのことばといっしょに「肉体」がどう動いているかわからない。
「迷路を ほっつき歩」くこと、と言いなおしている、と高橋は言うだろう。しかし、これでは「迷路」の構造がわからない。扉は右にあるのか、左にあるのか。あるいは階段を上るのか、降りるのか。人とすれちがうとき、誰かが壁に背中をくっつけて道を譲るのか。逆に、すれ違いざまに体に触れるのか。それを楽しむために、わざと「ほっつき歩く」のか。そのとき、高橋自信の「肉体」のなかで、欲望の迷路はどうかわるのか。
そういうものを書いてもらいたい。
その彷徨から貰った知恵は 古代ギリシアの
それより はるかに深い すくなくとも
はるかに細かな陰翳に富む と自ら言い訳
「はるかに」が二回繰り返されている。「はるかに」ということばを書きたかったのか。書くことで、高橋自身を「はるかな」ところへ運んで行きたかったのか。しかし、繰り返されることで「はるかな」は退屈な意味になってしまう。
「細かな陰翳に富む」という表現には、どんな陰翳もない。「陰翳」ということばがあるだけだ。そのことばで高橋が具体的に何を、いま、ここに呼び出そうとしているのか。それがわからない。
「言い訳」は、いつでも「整えて」提出される。整えられた「言い訳」など聞きたくないなあ。整えることのできない「妄想」をこそ聞きたい。「妄想」に苦しむのか、「妄想」にもだえ、喜ぶのか。どちらでもかまわない。「こんなことを妄想して生きるなんて」と高橋を批判しながら、こっそりその「妄想」をのぞき、ぞくぞく、わくわくする、という興奮を味わいたい。求めているか、拒みたいのか、どちらかわからない、というのが欲望の迷路だと思う。