高橋睦郎『つい昨日のこと』(99) | 詩はどこにあるか

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99 わが詩法

 「98 夜航」のなかに出てきた「詩法」がテーマになって繰り返される。


酒場と 浴場と 曖昧宿の薄暗がりが 学校だった


 この「現実」はすぐに、次のように抽象化される。


光のソクラテスならぬ 闇のエウポルモスが いつもいた


 「学校」は基本的に「光(理想)」を教える。ソクラテスの「理性/ことば」は「学校」を象徴するものである。しかし、高橋が通った「学校」はソクラテスの学校ではなく「闇のエウポルモス」が教える学校である。どんな「真理」を教えるか。


指と舌 ときに背中で 無言のうちに 真理を説いた


 この行は、「真理」は「無言」、つまり「ことば」にならないと語る。そのとき「舌と指」「背中」、つまり「肉体」そのものが「真理」となる。
 これは「論理」としては、たしかに、そうなる。
 しかし、「舌と指」「背中」は、どう動いたのか。そこに「動詞」が書かれていない。つまり「肉体」が動いていない。ことばにならなくても肉体は動く。その動きに誘われるように、私の肉体も動かしてみたい。だが、どこにも肉体を誘う動きはない。高橋と一体になり、高橋が味わったものを肉体で追体験することができない。


私の詩法は多く 若い夜夜に彼らに教わったもの
きみたちの嗅ぐいかがわしさの 遠いゆえん


 「嗅ぐ」という動詞が出てくる。でも、私には高橋のいっている「いかがわしさ」がにおってこない。「いかがわしさ」は「ことば」としてそこにあるが、嗅覚を刺戟してこない。「法」として整えられたことば、あるいは「法」に整えてしまう意識の強さを感じるだけだ。