高橋睦郎『つい昨日のこと』(98) | 詩はどこにあるか

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98 夜航

 「船は欲望の象り」とはじまる。


股間の船首を掲げての 若い私の夜ごとの航海も 例外ではなかった
いまは纜は波止に結んだまま 机の上の詩を目指す真夜のひそかな小舟の漕行
乱倫のまにま習い覚えた詩法とやらを 頼りない水先案内にして


 「股間の船首」は欲望の水先案内人。「股間の船首」は「船首」にとどまらず、「船」そのものだった。
 しかし、いまは停泊したまま。
 夜、海へ出ていくのは「小舟」である。この「小舟」は何によって動くか。「欲望」か。そうではなくて、「詩法」であると高橋は書く。「詩」ではなく「詩法」と。それとも、この「詩法」は「船首」と「船」が区別のないものだったように、区別できないものか。多分、そうなのだろう。
 ここが問題である。
 「詩」と「詩法」が区別できないものであり、その区別できないものを語るとき、高橋は「詩」ではなく「詩法」を選んでいる。「詩の方法/詩の書き方」そのものに詩が存在する。「船首(股間)」に船が、そして「欲望」があるように、「方法」のなかに「詩」がある。ことばの動かし方のなかに「詩」がある。

 「船は欲望の象り」。この書き出しに戻ってみよう。「船」と「欲望」は別個の存在(名詞)である。それを「象り」ということばで結びつけている。「象り」は「象る」という動詞とつながっている。この「象る」ということばの使い方、そのように「象る」という動詞をつかってもいいと許す「法」、つまり「決まり」のなかに高橋の「詩」が存在する。「象る」ということばをどうつかううか、その「法」は、どこにも明記はされていない。「文学」のなかに「暗黙の知識」として存在する。高橋は、それを踏まえている。「文学の伝統(ことばの伝統)」そのもののなかにあるものを頼りに(つまり水先案内人にして)、高橋のことばは動く。高橋は自分の「肉体」を頼りにしてはいない。
 「股間」という「肉体」を指すことばは出てくるが、「股間」は詩を語らない。「股間」は「掲げる」という動詞として肉体を動かしているが、「股間」が体験したことはどこにも書かれてはいない。掲げる以外の動きをしていない。

 逆に言えば、「文学の伝統」が「象る」欲望しか、高橋は生きていない。あらゆる「欲望」を「文学」が「象る」形で体験しているが、「文学」の「象り方」を超えてはいない。
 「詩法」を頼りとしない「欲望」こそが詩である、と書いてみてもしようがない気もするが、そう書いておきたい。