高橋睦郎『つい昨日のこと』(94) | 詩はどこにあるか

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94 ギリシアとは


ギリシア人は存在したが ギリシアという国はなかった
ギリシア人が行き 住みつく先がギリシアだった
ある日 私の心の岬にギリシアの小舟が漂着
気がつくと 私という島はギリシアになっていた


 「行き 住みつく」は人間の行動だが、「精神/哲学」と読んでみるのもいいかもしれない。
 だから、詩は、こう転調する。


そのことを認めた日から私はギリシア人


 「国」は、どこかに消えてしまっている。そのうえで、こうつづける。


私はギリシアを呼吸した すなわち自由を
何処にも存在しない 真空のような自由を


 しかし、私はここでつまずいてしまう。
 「何処にも存在しない」ではなく、どこにでも存在してしまう。それがギリシアの哲学ではないだろうか。どんなことにも集中し、ギリシアに染め上げてしまう。ギリシアにしてしまう。存在できない場所など、ギリシア哲学にはない。
 存在できているかどうかはわからないが、私は私のことばが動いていったところまでが「私の存在」と思っている。公園を散歩していて、ねじ曲がった木を見る。その木についてことばを動かす。ことばが動けば、その木も私の「肉体」と私は感じる。
 あ、これでは詩の感想(批評)ではなく、私の勝手な思いか。
 でも、こういうことばが動くきっかけが高橋の詩ならば、これを感想と呼んでもいいと思っている。