93 ギリシア人
この詩では、これまで書いてきたギリシアとは違うギリシアがあらわれる。
彼らは森を伐った 船をつくり 櫂を削った
これは「侵略」のためである。詩の後半。
文明の始まりはいつも同じ 血腥く後ろめたい
冒険と呼ぶ実は殺戮 植民と言い換えた侵略
彼らの名はギリシア人 私たち人間すべての代名詞
私がおもしろいと感じるのは、高橋が「彼ら」という代名詞をつかっていることである。「ギリシア人」と先に書いてしまえばいいのに(タイトルにはそう書いてあるのだが)、距離をとって「彼ら」と呼ぶ。「間接的」に表現している。「抽象化」と言ってもいいかもしれない。あるいは「論理の対象化」と言う方がより正確だろうか。
ギリシア人の行動を「論理」にした上で、「私たち」と結びつけ、さらに「人間」という具合に「対象(テーマ?)」を拡大していく。そのとき、そこに「私たち」ということばはあるが「私」は欠落している。「私」のことなど考えていない。
この詩は、ある意味では高橋の詩の特徴を語っているかもしれない。
「私」は登場するが、それは「私たち」の方に隠れていく。「人間」の方に隠れていく。これを「人間」そのものを描いている、「永遠」と交渉しているととらえることもできる。また「ことばの肉体」そのものを動かし「論理(真理/永遠)」にたどりつく運動を展開していると言いなおすこともできる。しかし、逆に、対象との直接交渉、肉体のぶつかりあい、セックスの奥を突き破っていのちを発見するということを回避している、ことばのなかで高橋の肉体そのものを保護している、と批判することもできる。
「私たち」とか「人間すべて」ではなく、高橋個人の「肉体」に触れたい、と私は思う。「ことばの肉体」は、どこか「死の匂い」がつきまとう。完結してしまい、あふれていくもの、突き破っていくものがない。
ギリシアは侵略した。その「衝動」はどこから来たのか。それは「彼ら」と「対象化」して呼ぶ限り、高橋自身の問題にはならない。