高橋睦郎『つい昨日のこと』(92) | 詩はどこにあるか

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92 認識

 書き出しの「六」の定義がおもしろい。

自らでしか割り切れない数 五でも 七でもなく
二でも 三でも そくざに割り切れる 親しい数 六


 これは高橋が考え出した定義か、それともギリシア人が考え出した定義か。「割り切れる」を「親しい」と言いなおすのは、高橋か、ギリシア人か。
 この「六」は「六オボロス」へとつながり、「死の川」の渡し賃となる。死を考える(連想させる)数。それを「親しい」と呼ぶのは、誰なのだろう。
 「二」と「三」は、それでは、どう言いなおされるだろうか。


それでも 生きたからには 死んだからには 誰でもが
そこへ赴かないというわけにはいかない ギリシア人は
そのことを知っていた 悲観でも 楽観でもなく
いわば 体温も 体重もない 掛け値なしの 認識


 「生きた(生)」「死んだ(死)」と「悲観」「楽観」。対比されるものの、どちらが「二」であり、どちらが「三」か。それは正反対のものだが「数」にしてしまうと、入れ替え可能である。どちらが「二」であり、どちらが「三」でもかまわない。
 この徹底した「論理(認識)」は、たしかにギリシア人のものだろうと思う。
 「生きたからには 死んだからには」の「からには」に、「論理」を一点に集中させていく「力」を感じる。この集中力がギリシアだなあ、と私は感じる。

 世界に存在するのは「生」でも「死」でもない。「論理」である。すべてを「論理」にしてしまう「認識」。
 「地獄」も「極楽」も、単なる関係でしかない。
 しかし、「認識」に「体温も 体重もない」というのはほんとうか。
 私はむしろ「体温も 体重も」も感じる。「生きたからには 死んだからには」の「からには」に、体温も体重も、「肉体」のすべてを集中させていく力(意思)を感じる。

 脱線するが……。
 プラトンの対話篇を読むと、ソクラテスの「肉体」が迫ってくる。他の人物は「ことば」だけなのだが、ソクラテスには「肉体」を感じる。プラトンがプラトン自身を対話篇に登場させなかったのは、プラトンが「肉体」ではなく「ことば」の人だったからかもしれない、と私は想像するのである。