91 そここそが
ほんとうは 彼らは死んでなんかいない
死んでいるのは かえってきみのほう
そのことに気づいたら そこがどこであれ
そこからこそ きみは生きはじめる
そこがエレウシス 特別のどこでもなく
「エレウシス」という固有名詞が出てくる。「エレウシスの秘儀」ということばがある。私は、そのことばを聞いたことがあるだけで、具体的には知らない。「ほんとうは 彼らは死んでなんかいない」ということばがあるから、死と密接な関係がある「秘儀」なのかもしれない。「秘儀」というのは、全般的にそうなのかもしれない。
わからないことは、そのままにしておいて。
私は「そこがエレウシス 特別のどこでもなく」という行に注目する「エレウシス」は固有名詞。固有名詞は「個別の存在」(特別なもの)を指し示す。それなのに高橋は「特別」を否定する。
「特別」であることを否定された固有名詞とはなんだろう。
「普遍」だ。あるいは「永遠」だ。
死んでいるのはきみ、死んでいると気づいてから生き始める。この動きのターニングポイントは「気づき」である。
「気づく」ことが「普遍(永遠)」の始まりなのだ。
こう読めば、これはギリシア哲学である。ギリシアは「気づき」、「想起する」。「想起」を生活のことばにしていく、その集中力が哲学をつくる。
「90 冥界と楽土」の詩と同様、わからないのだけれど、まだギリシアを感じることができる。