高橋睦郎『つい昨日のこと』(87) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

87 理由

 高橋の詩が、前に書いた詩を引き継ぎながら動くのか。あるいは、私の感想が高橋の詩を強引に結びつけてしまうのか。


かつて若者は美しく 老人は堂堂としていた
木木は涼やかな嫋ぎを零し 水は清清とせせらいだ
--そう思いたい が それは永久の幻 見果てぬ夢


 「若者は美しく」と書きながら、それをすぐに「永久の幻 見果てぬ夢」と言いなおす。「ことば」のなかに閉じこめてしまう。幻も夢も、ことばの中にしかない。「肉体」のなにかあるときは「暗闇」であり、「ことば」として具体的に外に出てきたときに「幻」「夢」になる。ことばが幻を「永久」のものに変え、ことばが夢を「見果てぬ」ものに変える。


いつでも若者は軽薄で小狡かったし 老人は尊大でもの欲しげだった
木木は埃を被って病気だったし 水は芥でつまって動かなかった
だからこそ 美しいものは美しく 清いものは清くなければならなかった
それこそが 古代の彫像が眩しく 詩が蠱惑に満ちている理由


 芸術、ひとの作り上げたものだけが「美しい」。「事実/現実」をことばで殺し、「真実」をことばで甦らせる。そこには血の匂いがあり、苦悩があり、絶望と欲望がある。「暗闇」が噴出してきて、太陽の光の中であざやかに輝く。それが眩しければ眩しいほど、ほんとうは暗い。
 高橋は「いのち」と「死」を往復する。「文学のことば」を通って往復する。