高橋睦郎『つい昨日のこと』(86) | 詩はどこにあるか

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86 針の用意

 この詩はギリシアを描いているのか。


「小銭入れの中に いつも縫針を一本用意しておくこと」
それは 代代伝えられてきたおばあさん取って置きの知恵
道で躓いて転んだら 杖を拾う前に打った箇所に針を立てる
血をすこしでも外に出して 空気に触れさせてやること
鬱血は血を腐らせ いつも根こそぎ腐らせてしまう


 「ギリシアのおばあさん」というよりも、高橋自身のおぼあさんのことを書いているのではないのか。
 「針の用意」というよりも「針の記憶」「おばあさんの記憶」。
 そう読むと、「記憶」ということばで、「85 記憶」とつながる。
 高橋は「猫派」であると同時に、「おばあさん派」(おばあさん子)だったのだろう。猫の毛を撫でながら、おばあさんの手で、「いつくしむ手つきで 弱く 強く 撫で」られた記憶がある。撫でながら、おばあさんの話を聞いたことがある。
 それはたとえば高橋が、道で転んだときかもしれない。
 おばあさんは、小銭入れから縫針を取り出し、高橋の鬱血箇所を刺した。「痛い」と訴える高橋に対して、「血を空気に触れさせる効果」を話したのだろう。
 「おばあさんの肉体」と「高橋の肉体」が「一体」になって、ひとつの「記憶」をつくっている。そして、その「記憶」を「用意」と呼んでいる。
 なぜ、「用意」なのか。最後の二行は、こう語る。


それに うっかり犯した自分の罪を見つづけたくないときは
自ら目を突いて 世界を暗闇に変えることもできるのだから


 これは「事実」というよりも「比喩」だろう。
 もし高橋が「罪」をみつづけることがいやになったらどうするか。「針で目を突く」かわりに「ことば」で「記憶」そのものを突く。「記憶の暗闇」を血のように噴出させる。「記憶の暗闇」が「鬱血」しないようにする。「……しないようにする」を「用意」という。「用心」とも言う。
 高橋のことばには、「死」の匂いがする。高橋は、猫やおばあさんと「一体」になるように、「死のことば/ことばの死」と「一体」になっている。「若い肉体」に惹かれることを書いていても、「死んでしまった若い肉体」という「理想」が生きているだけであって、「血」は流れていない。高橋がどんなに「若い肉体」(ギリシアの肉体)を称讃してみても、「若い肉体」ではなく、「称讃することば(文学/歴史になったことば)」の方が見えてしまう。死を「用心」し、死を「用意」することばが。