高橋睦郎『つい昨日のこと』(66) | 詩はどこにあるか

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66 ギリシア病一


光の中の 剥き出しの恥部のような白い遺跡群
一夏をほっつき歩いた身には 以後の夏ごとに
自分のいまいる場所が 何処でもギリシア世界に


 この文末には「変わる」という動詞が省略されている。


サンダル穿きで浜辺に出れば 群れ立つ人びとは
陶片追放の嗜虐にぎらぎら滾る アテナイ市民か


 ここにも「変わる」が省略されている。浜辺の人々はアテナイ市民に「変わる」。
 高橋自身は、どうか。


自身 見えない目で見渡す放浪の老詩人気どり


 「老詩人気どり」と書かれているが、やはり老詩人に「変わる」だろう。
 「気取り」は「気持ちを引き取る」ということであり、「変わる」を言いなおしたものだ。
 問題は「気」を引き受けているのであって、「肉体」を引き受けてはいないということ。「気」が「肉体」になっていない。
 「ギリシア病」は「ギリシア病気」と言いなおせば「気」が入ってくる。「気持ち(気分)」の問題になる。
 「気」だけでは、おもしろくない。「気」は「変わる」と結びついて、「気が変わる」になってしまう。その瞬間にギリシアは消えてしまうだろう。
 「気」を省略して「病」という限りは、もっと「肉体」そのものを書いてほしい。「肉体」がどう「変わった」のか、それを私は知りたい。