高橋睦郎『つい昨日のこと』(65) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

65 ギリシアよ


私はギリシアに攫われたと呟く
ギリシアはそんな覚えはないと言う


 この対話はどうつづくか。
 つづかない。
 高橋の一方的な言い分になる。


みんな みんな 攫われたのだよ
なぜなら 詩を発見したのは誰でもない あなた
発見せり! といえるのは あなただけだから


 「発見せり」には「ユリイカ」とルビが振ってある。
 ここに「日本語」と「ギリシア語」の「対話」があるのかもしれないが、味気ない対話である。「肉体」が動かず、「頭」だけが動いている。
 直前の「なぜなら」ということばが、それを証明している。
 何かを発見したとき、ひとは「なぜなら」などとは言わない。「なぜなら」を飛び越えて、いきなり「発見」にのみこまれてしまう。「発見」に、それこそ「攫われる」。「発見」そのものになる。そこには「ことば(詩)」はまだ存在しない。「発見する」、あるいは「詩になる」という動きがあるだけだ。
 「なぜなら」はいつでも「事件(発見)」の後に遅れてやってくる。
 「なぜなら」は「過去」へ引き返す「言い訳」である。

 「攫われた」というかぎりは、「肉体」がギリシアになってしまわないとおもしろくない。「攫われる」とは自分が自分でなくなることだ。狂うことだ。

 「なぜなら」も「狂い」の証明になることがあるかもしれない。論理など機能しないのに「なぜなら」と主張するのは狂っている、と。でも、そういうことが人を魅了(困惑する愉悦がある)するとしたら、そこに手のつけられない「肉体」があるときだけだ。「肉体」が全面に出てこない「なぜなら」は味気ない。