高橋睦郎『つい昨日のこと』(64) | 詩はどこにあるか

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64 翅


ギリシア人はヘルメスの沓に着ける翅を ファロスにも着けた
羽沓がヘルメスを迅速に何処にでも運ぶのと まったく同じに
ファロスも持ち主を何処に連れていくか 予測もできない


 この詩も「ことば」だけでできている。肉体の実感が欠けている。それが証拠に、四行目はこうつづいている。


だが 翅あるファロスの含む寓意は じつはそれ以上


 「寓意」が出てくる。「寓」が問題なのではなく「意」が問題だ。ファロスは「頭」ではない。「肉体」の中心だ。「頭」からの、抑制が効かない。つまり「意(味)」を無視して暴走する。そういうものに「翅」という「比喩」を結びつけて、「意味」をでっちあげてしまう。
 「肉体」を捨てて。
 「意味」というのは、いつでも「結論」を含みながら動く。
 次の二行は論理の「必然的帰結」であって、詩からは遠い。


ファロスに捨て去られてからの持ち主の人生こそ まさに正念場
分別に翅が生えて真の知恵になれるかの 瀬戸際なのだが


 「分別に翅が生えて」は「分別が加速し/力を増してて」という「意味」なのだろうけれど、それが「真の知恵」であるかどうか、私は疑問を持つ。
 ファロスに捨てられたとき、ひとは「分別」も捨てる。必死になって、ファロスをとりすがる。そういう「肉体」をことばにしてくれないのなら、それは八十歳の詩人のことばを読む愉しみがない。

 「意味」など共有したくない、と私は思う。