ジアド・ドゥエイリ監督「判決、ふたつの希望」(★★★★★) | 詩はどこにあるか

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ジアド・ドゥエイリ監督「判決、ふたつの希望」(★★★★★)

監督 ジアド・ドゥエイリ 出演 アデル・カラム、カメル・エル・バシャ

 二人の男の些細なぶつかりあいが法的劇に発展する。二人とも思うことがあり、譲らない。いわば「理念」の衝突、という感じなのだが。
 むしろ、脇役に徹しているふたりの妻がおもしろい。味がある。争ってもしようがないのに、なんとか丸く治められないの? という「なだめ役」が中心なのだが。

 最初は「意味」がわからなかったシーンが、最後にわかるようになっている。そして、そこに男と女の違いがある。
 妊娠している妻は、こんな街はいやだ、よそへ行きたいという。ところが男は、やっと買った家だ、ここから出て行かない、という。でも、男のほんとうの「決心」は、そういう経済的なことではない。いま住んでいる街が、彼の「ふるさと」の近くだからである。「理念」ではなく、思い出を生きている。それは楽しい思い出とは言えないが、そこから離れては生きていけない。男の「原点」なのだ。
 女はそうではなくて(原点にこだわるのではなくて)、「いま」にこだわっている。あるいは「いま」から先、「これから」にこだわっている。「生きていく」ということを最優先に考えている。生まれてくる子どもを育てるには、ほかの環境の方がいい。(もうひとりの女の方も、「いま」をよりよく生きるためにノルウェーへ行くことを夢見ている。)
 「いま」を生きるという姿勢(願い)は、男に静かに静かに影響してくる。
 影響があらわれる最初のシーンが、大統領(?)と面会した後。二人は別々の車を運転して帰るのだが、工事の仕事をしている男の車のエンジンがかからない。車修理を仕事にしている男は、それをバックミラーで見ると引き返してきて、修理してやる。敵対しているのだけれど、いま、相手が困っているなら、そしてその困っていることに対して自分が何かできるなら、それをやる。自分ができることと同時に、「いま」が大切なのだ。男の方にも「いま」を生きるという「本能」は残っている。
 このシーンを見たとき、私は、映画はここで終わる、と思った。ここには、「いま」をどう生きるかという「答え」のようなものがあるからだ。「いま」を生きるしかないのが現実だ。そして、その「いま」にこそすべてがある。
 で、このあと、映画は急展開する。
 法廷で、自動車修理工(妻が妊娠している男)の「過去」がわかる。彼もレバノン国内で「難民」のように生きた時代があった。自分が生きていた場所を奪われ、家族が離散したという過去があった。そのとき彼は幼い少年で「戦う」ということを知らなかった。逃げることしかできなかった。
 そのあと。
 建築工事の男が自動車修理工を尋ねてくる。わざと侮蔑的なことばを投げかけ、殴られる。殴った後、自動車修理工は自分のこぶしをじっとみつめる。暴力を肯定するわけではないが、ひとは暴言を吐いてしまうことがあるのと同じように、思わず暴力をふるってしまうことがある。それは相手を傷つけることが目的というよりも、自分の怒りを(肉体を)解放するということなのだ。全面肯定してしまってはいけないが、「戦い」にはそういう側面もある。それは「自衛」(自己防衛)と呼ばれる。(裁判でも、何度か問題になっている。)
 このシーンも非常に良くて、私は、ここでも、これでこの映画は終わるのだと思ったら、またつづきがあった。「判決」が下されるシーンまで、あった。
 でも、まあ、「結論」はどうでもいい。二人の男は、「和解」が済んだ。「いま」がほんとうにふたりのあいだで動き始めた。それまでは「いま」ではなく「過去」が二人を支配していた。二人は「過去」を「判決」のなかに封印して、「いま」をこれから生きていく。

 男は「過去」、女は「いま」というのは、二人の男の弁護士が男と女(父と娘)という対比でも描かれていた。当然の帰結として「いま(女)」が勝訴する。女を前面に出しているのではないのだけれど、その出し方がとても巧みな映画だ。この「女の勝利」が、この映画に明確な輪郭を与えている。
 脚本が非常によくできているし、役者もうまい。
 (2018年09月09日、KBCシネマ2)



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