高橋睦郎『つい昨日のこと』(58) | 詩はどこにあるか

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                         2018年09月04日(火曜日)

58 本能と修練

 彫刻を見ての感想である。


鹿を襲う獅子 獅子に襲われる鹿 と言いなおそうか
鹿を襲う昂りがあるなら 獅子に襲われる悦びもあるはず


 二つは等しく美しい、と高橋は言う。


私たちはあるとき襲う者であり べつのときには襲われる者
神のごとき彫刻家は知っていた 彼の魂以上に彼の腕が
左右いっぽんいっぽんの指先が 本能と修練とによって


 一行目の「言いなおす」という動詞が詩の出発点である。あらゆることは「言いなおす」ことができる。どう言いなおすかが「思想」である。
 「襲う/襲われる」という動詞は、「昂り/悦び」という感情の動きとして言いなおされる。
 彫刻家の仕事も、彫刻家と石という自他の関係で「襲う/襲われる」を言い直しができるだろう。
 彫刻家は石を彫るのではない。石に別の形を与えるのではない。石のなかにはすでに彫り出されるものが隠れている。彫刻家は隠れているものを表に出すだけである。彫っているのか、導かれて彫らされているのか。感情の交錯、鹿の恐怖と悦びのような、区別のつかないものがある。
 しかし、高橋は、そう簡単には言いなおさない。
 「襲う/襲われる」という自他の関係を、彫刻家ひとりの存在の中で反芻する。「魂/腕(指先)」という二元論でとらえ直す。
 「魂」は理想の形を思い描く。「腕(指先)」は現実には存在しない形を具体化するために動く。「襲う/襲われる」は「理想/具体」と言いなおされている。
 さらに刺戟的なことに、「理想/具体(現実)」は「本能/修練」と言いなおされることである。
 高橋にとって「理想」とは「本能」なのだ。
 この瞬間、高橋はギリシア哲学にぐいと近づく。
 世界に起きていることがら、自他の問題を、人間存在の、個人の問題としてことばとして反芻し、そのことばの運動にひとつの形を与える。
 高橋は「ことばの運動」を生み出すのだ。