高橋睦郎『つい昨日のこと』(57) | 詩はどこにあるか

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57 断片

 「56 断片を頌えて」の続篇。ただし、この詩で取り上げられるのは彫像ではない。


引用によって僅かに残された断片は
かつて在った完璧な詩の いわば精髄
それが放つ光は後世を惹きつけて止まない


 「精髄」であるから、他の部分が失われても残ったのか。
 そうとは言えないだろう。
 ごく普通に見えることばであっても、それは「完璧な詩」へとつながっている。その一部であったのだから。「断片」はいつでも「精髄」なのだ。
 この詩で問われているのは「引用」と「精髄」の関係である。いや、「引用」とは何かということである。
 「引用」を高橋は、こう言いなおしている。


そこから新しい詩が始まらなければならない
詩の生命力とは 絶えず始まりを産みつづけること


 「引用」は何かを引いてきてつかうということではない。「始める」ことである。そこにあるものを「到達点」ではなく「出発点」としてとらえ直すこと。
 「断片」は詩にしろ彫像にしろ「完成形」の一部である。しかしそれは「完成形」を到達点と見るから「断片」という定義になるだけである。「完成形」はどこから始まったのか、誰も知らない。「断片」が出発点であったかもしれない。
 残された「断片」を見て、後世の人間は「完成形」を夢想する。同じように、それをつくった人も「断片」にひそむ力を出発点として「完成形」を目指したかもしれない。「事実」は、わからない。
 そして、ひとつの具体的な「断片」から出発するとしても、その「完成形」はひとつとはかぎらない。
 「完成形」がどうであってもかまわないとまではいわないが、問題は「始める」ことである。「断片」としての「事実」。そこから始める。始めることによってできた部分、そこからさらに始める。
 この「始める」を高橋はさらに「産む」という動詞で言いなおしている。
 詩ではなく、これを哲学に応用すると、ソクラテスの「産婆術」になる。ギリシアは「産む」文化である。