高橋睦郎『つい昨日のこと』(55) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

55 美しい墓

 「54 海辺の墓」の続篇。


すこしずつ忘れられ ついには無になる記憶には
朽ちない石より朽ちる木のほうが ふさわしい


 この石と木の対比、朽ちないと朽ちるの対比は、私にはなじみやすいが、ギリシア人もそう思うかどうか、あやしい。
 石の文化のギリシア人は、そんなふうには思わないかもしれない。
 高橋は、ギリシアではなく、日本を「復習」している。高橋の「肉体」にある日本がギリシアという場で動いている。ギリシアでなくても、アイルランドでも同じように動くかもしれない。言い換えると、この詩はギリシアを舞台として必要としているとは思えない。
 ここから高橋のことばは不思議な展開をする。「舞台」(土地)を無視して、ことばが勝手にことばを増殖させ、動き始める。
 石と木を「朽ちない」「朽ちる」という動詞を対比した上で、「朽ちる」という動詞のはかなさに重心を移したのに、「朽ちない」へと再び転換する。


だが もっと美しいのは朽ちるべき墓標もない墓
寄せては返す海が塚で ときに立ちあがる虹が墓標


 虹は「消える」が「朽ちない」(朽ちるわけではない)。ことばは「朽ちない」「朽ちる」から飛躍している。この飛躍を詩と呼べば詩になるが、「でっちあげ」でもある。つまり、このとき高橋は肉眼で虹を見ていない。ことばを動かして、ことばの中に虹を見ているだけである。
 美しいが、ああ、これは「嘘」だなあ、と思ってしまう。言い換えると、ギリシアで高橋が発見した「事実」とは感じられない。
 私は、ここで「古今和歌集」や「新古今和歌集」の技巧に満ちた和歌を思い出してしまう。消えてしまう虹を「朽ちない」「立ち上がる」ととらえ直す技巧的精神に。