高橋睦郎『つい昨日のこと』(54) | 詩はどこにあるか

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54 海辺の墓

 死は、また「古典(ことば)」とは別の形をとることがある。


難破者は無名者 その墓標に櫂を立てた


 と始まる詩は、ギリシアの習慣を読み込んだものか。しかし、


人はみんなみんな 人生という海の難破者
名ある人とても その事跡はやがて忘れられる
波だけが燿き暗み 葬いの歌をうたいつづける


 こういうことばの展開を読むと、ギリシアの兵士ではなく日本の漁師が目の前に浮かんでくる。自然と調和して生きる人間が見えてくる。
 しかし、自然は人間のいのちとは無関係に存在する非情ではないのか。
 人間は「有情」の存在である。しかし人間の情とは関係なく、ただ存在する。非情だ。人間は自然に情を託すが、自然はそんなものに見向きはしない。
 「波だけが燿き暗み 葬いの歌をうたいつづける」というのは人間の「思い入れ」に過ぎない。「燿き暗み」という対比は人間の見方である。「葬いの歌をうたいつづける」も、そう願う人間のことばにすぎない。
 書かれていることばとは裏腹に、私は、そう思ってしまう。
 死も自然も非情なものだ。だから悲劇が生まれる。
 高橋のこのことばは、あまりにもセンチメンタルだ、とも思う。日本的な抒情だ、と。「忘れられる」(断絶)と「うたいつづける」(継続/連続)の「対句」構造は、「和歌」の抒情である。
 ギリシアの透徹した視線、「情」を排除して世界の構造をとらえるという視線の徹底さを欠いている。
 ギリシアのなかにふいに、高橋が抱え込んでいる日本の自然が噴出してきた、という印象を持った。