高橋睦郎『つい昨日のこと』(35) | 詩はどこにあるか

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35 ドドナにて


おう ドードーナ ドードーナ
それは地名である以前に 烈しい風音


 「地名である以前に」の「以前」が重要だ。「名前以前」とは「名づけられる前」ということ。「名」として分節される前。未分節。つまり「無」の状態。そこではただ風が音を立てている。何かになろうとする動きが、そのまま風の激しさとして存在している。「名づけられる」前に、自ら「音」を発している。
 これは、こう言い換えられる。


風のみなもとはいつも おまえ自身の胸奥の 肉の鞴
肺胞の中の 湿った生臭い闇こそが ドードーナ


 「無」は「闇」と言い換えられている。それは「胸奥」にある。「肉体の奥」である。肉体は「形」だが、肉体という「形」の奥には、「形」にならずに動いているものがある。それは「動き」としか呼べない。「動き」とはエネルギーである。その「動き」を高橋は「鞴」と呼ぶ。その瞬間、「肉体」と「風」がひとつになる。「風」のような「動き」、見分けがつかない「動き」。「見分けがつかない」から「闇」なのだ。「見分けがつかない」けれど、それが「ある」ことはわかる。形にならない(無)が、見分けがつかないまま「ある」。
 この矛盾を、高橋は、真実と呼び、ことばをこう展開する。


その真実を あらためて識るために 旅人よ
海を渡り 幾つもの峠を越えて はるばると
この地の涯に おまえは来た


 「あらためて識る」というのは、「予感」として知っていたことを「ことば」にすること。ことばを確立し、「事実」にすること。
 この詩では「ドドナ」が「ドードーナ」と新たに言いなおされることで、「土地」と「人間」が一体になる。それは高橋の「肉体」がつかみ取った「事実」だ。
 「旅人」は、こうして「詩人」になる。