高橋睦郎『つい昨日のこと』(34) | 詩はどこにあるか

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34 不在 エピダウロス


円形劇場の擂鉢の底に立つ旅人は


 と書き始められる詩。「旅人」は高橋のことである。「擂鉢の底」は舞台である。そこから観客席を見上げる。そこには「自分はいない」。


いるのは演劇の神 ではなく
底のない青空 青空という名の無


 ギリシアの空はどこまでも澄んでいる。その描写なのだが、「青空という名の無」がとても印象的だ。「青空」を「無」と言い換えたのか、「無」を「青空」と名づけたのか。名をつけるとき、対象があり(青空/無)があり、同時に「名をつける」主体がある。人間(高橋)がいる。
 でも、ここに書かれているのは、そういう世界ではない。
 「青空」を「無」と名づけた瞬間、その名づけた主体は消えてしまう。「青空/即/無」「無/即/青空」の「即」が「名づける」という動詞であり、その動詞のなかに高橋は消えていく。そして「青空」とも「無」とも一体になる。
 この「即」を「不在」と高橋は定義している。


旅人よ ここに来て きみはついに不在


 美しい定義だ。
 「不在」になるために、人間は生きている。「不在」になったとき、何が残るか。「ことば」が残る。
 「劇」として、「詩」として。
 「不在」は「無」であるが、それは「決まった形をしていない」(不定形である)ということだ。何にでも変われるのが「無という存在」(不在)である。
 ことばは何にでもかわることができる。
 つまり、詩とは、瞬間瞬間に姿を変えていく「事実」なのだ。
 この「不在/無」を通過して、高橋は、これからどう変わっていくのか。何になるのか。