高橋睦郎『つい昨日のこと』(29) | 詩はどこにあるか

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29 青空

 レストラン。放し飼いにされている亀がいる。「パンやサラダをしきりにねだる」。


パンに飽きると踵を返して 植え込みのアカントスを貪りはじめる
葉という葉が食い尽くされようと 憂うるな それらはまた生えてくる
神神が失せても 人が滅びても 青空は青空のまま


 「アカントスを貪りはじめる」が強い。アカントスはギリシアの文様として有名だが、実際にアカントスという植物もある。それ自体は一般名詞だが、この詩では「固有名詞」のように強く響く。「事実」だからだ。
 「ヘルメスの実」の無花果と同じように、「事実」は強い。
 ある瞬間を描いているだけなのに、その瞬間が、そこにしか存在しない「事実」として目の前にあらわれてくる。
 「事実」によって、想像力が動く。想像力とは「事実」を歪める力のことだが、「事実」は想像力を鍛え直す。
 「神神」というものは、存在するのか、存在しないのか。無視して、ことばは「青空」にたどりつく。「青空がある」という「事実」が「神神が失せても 人が滅びても」という想像力を叩き壊して出現してくる。「青空」も一般名詞だが、それが「固有名詞」になって出現してくる。「失せる」とか「滅びる」とかの「述語」をひきつれずに、突然、「もの(事実)」としてあらわれてくる。

 光が散らばっているギリシアの青空。
 
 不思議なことに、私は亀になってアカントスを貪りたいと思うのだ。そのとき、ギリシアの青空は、絶対的な青空、一回かぎりの、永遠の青空になる。