6 (ぼくは何処までも歩いていつた)(嵯峨信之を読む) | 詩はどこにあるか

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6 (ぼくは何処までも歩いていつた)

ぼくは何処までも歩いていつた
長雨で水面が重く膨らんでいる川に沿つて歩いた

 「歩いたいつた」「歩いた」と「ぼく」の動きが書かれているが、ここにもうひとつ「動詞」がある。
 「重く膨らんでいる」。「川」を修飾することばだが、それは同時に歩いている「ぼく」の気持ちを表わしている。「重く膨らんでいる」の「重く」は「膨らんでいる」を補足しているのだが、「主語」にも見える。「重さ」が膨らんでいる、と読むことができる。そう読んだ方が、さらに「ぼくの気持ち」に重なる。
 気持ちの中に「重いもの」があり、それは「膨らんでいる(膨らんでくる)」。だから、「歩く」のだ。何をしていいかわからない。ただ「歩く」。「何処までも」が暗示しているように、「到達点」はない。
 「川に沿つて」歩くことは、実は、「ぼく」そのものに添って歩くことだ。
 「川」は「ぼくに沿つて」流れている。
 歩けば、その隣に、川が流れている。
 「ぼく」と「川」は「一体」であり、「歩く」と「流れる」も「ひとつ」である。だからこそ、

矢のような流速はぼくが泳ぎわたるのを強く拒んでいる
その長途の歩行記録はどこにも見えない

 「一体」だから「わたる」ということはできない。また「一体」だから「歩行記録」もない。客観化できる「地理」がない。ただ「歩く」という動詞だけがある。
 「ぼく」が「自動詞」として完結する。
 これを「孤独」と言う。