「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-38) | 詩はどこにあるか

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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-38)(2017年06月07日)

75 *(遠いひかりになつているおまえの母)

ぼくはぼくの手に墓を建てる
おまえの体温がいつまでものこつているこの掌の上に

 「手」が「掌」に変わる。「手」が「掌」に収斂していく。「収斂する」は「結晶する」かもしれない。「のこつている」は収斂することで見つけ出した「結晶」である。
 嵯峨は「墓を建てる」と書いているのだが、何かをつくるというよりは、見つけ出すという感じがする。妻の「体温」を見つけ出す。「のこつている」は見つけ出すであり、見つけ出すは「おぼえている」である。「掌」がおぼえているものを、見つけ出す。

76 *(イマージュから出てきて)

ぼくを通りぬけて遠い街角をまがつてゆく殿さま行列
それを見ている蛙もいるだろう

 「殿さま」から「とのさま蛙」へと動いていく。このナンセンスを嵯峨は、「意味」へと変えてしまう。

いつものように大地に両手をついて
その全身をこゆるぎもさせずにじつと支えて

 ここに「抒情(悲しみ)」があるのだが、ナンセンスはナンセンスのままの方が、悲しみを深くするかもしれない。

 「考えかた(方)」の「方」というのは、一種のパターンだが、そのパターンは私の知らないものである。私の肉体はそういうパターンを経験してきていない。だから、ついていけない。
 最初から「ついていけない」のなら気にならないが、書き出しはぐいと引き込まれる。私の「肉体」が体験してきたもの、「肉体」がどこかでおぼえているものを刺戟するのだが、ことばが進むにつれて、そのことばといっしょに動く「肉体」とはどういうものなのか、つかみどころがなくなる。つかめなくなる。