パオロ・ビルツィ監督「人間の値打ち」(★★★★) | 詩はどこにあるか

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監督 パオロ・ビルツィ 出演 バレリア・ブルーニ・テデスキ、ファブリッツィオ・ベンティボリオ、マティルデ・ジョリ

 交通事故の「真犯人」探し、がストーリーを動かしていく。しかし意外と簡単に「真犯人」を明らかにする。テーマは「真犯人探し」ではないのだ。「事故/事件」のまわりで、ひとがどう動いたか、がテーマ。
 そのテーマにそって言いなおすと、最後が絶妙な展開である。観客は「真犯人」がだれかわかっている。しかし、どうして「真犯人」がつかまったのかは明らかにされていない。
 少女の父親が「証拠/情報」を金持ちの母親に売り、金持ちの母親が「情報」を警察に持ち込んだから?
 いちばん「論理的」だが、私はそうは見なかった。
 これでは少女の父親がいちばん非人間的になってしまう。金のことしか考えていない人間になってしまう。金持ちの母親が警察に通報するというのも、後味が悪い。
 ラストシーンの刑務所に入った少年と、面会に来た少女の美しさにそぐわない。
 だから、私はこんなふうに見る。
 少年は「逃げる」ということを拒否したのだ。そのために自殺しようとした。死ぬことで犯罪を償おうとした。同時に、それは少年をかばう少女を救う唯一の方法だった。少女さえ「証言」しなければ、罪を金持ちの息子に押しつけることができる。少年は「無罪」でいられる。でも、そうなったとき「虚偽の証言」をしてしまった少女はどうなるのだろうか。刑務所には入らない。けれど、ずーっと嘘を人生を生きていかないといけない。少年は、これを知っていて、「犯人」になることを選んだ。ただし、刑務所に入るのはいやなので自殺しようとしたということだろう。
 でも、なんとか助かった。命を取り留めた。
 命を取り留めたあと、少年は刑務所に入る。刑期を終えることで、新しい人間として生まれ変わる。少女もそのときいっしょに生まれ変わっている。そう暗示している。
 この「再生」の展開の仕方はとても魅力的である。
 映画のほんとうのテーマは「再生」かもしれない。だからこそ、「再生」できなかった少女の父親は重要人物であるにもかかわらず、事件が解決したあとは出てこない。少女の父親は「人間」として死んだのである。金持ちの母親は、生きてはいるが、虚無を生きている。状況を傍観することしかできなくなっている。つまり「死んでいる」。
 繰り返しになってしまうが、この二人の「死/半死」と比較すると、刑務所の少年と少女が「生まれ変わって生きている」ということがよく分かる。

 「人間の値打ち」を何によって測るか。映画の最後には、死亡した被害者への「賠償金」が「値段」として出てくるが、これは「反語」のようなもの。映画は「正直」と「再生する力」を「人間の値打ち」として静かに語っているように思う。
 いい映画だと思った。

 細部では、少女が少年と出会うシーン。少年が少女の肖像画を描き、それを見た少女が「ほんとうの自分」を見つめられていると感じたと語るシーンが、とてもいい。そのあと二人で道端に座って語るシーンもいい。
 少年は、少女が少年をかばうこと(どういう人間であるかということ)も、たぶんこのときにわかっていた。見抜いていた。だから苦しんで、自殺しようとしたのである。
 あからさまな「伏線」ではなく、何気なく描かれているだけに、とても印象に残る。
 描かれた「絵」が少女に似ているというよりも、少女が「絵」に似ていると感じさせる映像(演技)もすばらしい。
 少女を演じたマティルデ・ジョリ。これまで見たことがあるかどうかわからないが、見続けたい女優だ。
                      (KBCシネマ1、2016年12月21日)



 KBCシネマのスクリーンはあまりにも暗い。映画そのものの画像の質というよりも、映写器機が原因だと思う。私は目が悪いせいもあるかもしれないが、KBCシネマで見たあとはからだが以上に疲れてしまう。
 福岡ではミニシアター系の映画館はここしかない。ここで見るしかないのだが、みたいけれどやめるか……とあきらめる作品も出てきてしまう。
 なんとかスクリーンを明るくしてもらいたい。

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